2022年10月20日
ホトトギス
ホトトギスの花は鳥のホトトギスに似ているから名付けられました。
お市
さらるだに 打ちぬる程も 夏の夜の
夢路をさそう 郭公(ホトトギス)かな
柴田勝家
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を
雲井にあげよ 山郭公(山ホトトギス)
詩人 大島建夫の解説で
1583年6月13日。
豊臣秀吉の軍勢は、越前の国北庄城を取り囲んでいました。
城に立て籠もっていたのは、織田信長の筆頭の重臣であった柴田勝家。
信長死後の勢力争いの中で秀吉と対立し、旧・信長家臣を二分した賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れ、北の庄に逃れてきていたのです。
もはや城を守る兵はわずかでしかなく、援軍の来るあてもありません。運命が尽きたことを悟った勝家は、この日の夜に、最後に残った一族郎党を集め、別れの酒盛りを開きます。
勝家は、妻・お市に、城を出ていくように勧めます。
お市は信長の妹で、しかも秀吉は彼女に好意を抱いていたと言われていますから、助命されることは確実でした。
しかし、お市はきっぱりとそれを断り、「さらぬだに・・・・」から始まる、上記の歌を詠んだのです。
もう寝る頃になりました、この夏の夜にホトトギスが夢の世界に誘っていますね、とその歌に、お市が生き延びようと望んでいないことを知った勝家は、「夏の夜の・・・・」から始まる歌を返しました。
ホトトギスよ、この夏の夜の夢のようにはかない私たちの名を、どうか雲の上まで運んでくれ・・・・・・。
宣教師の日記に「日本で最も勇敢な人」とまで書かれる一方で、部下思いの優しい性格で知られた勝家と、同時代の様々な記録に「天下一の美人」と記載されながら、前夫・浅井長政を、兄である信長の手で討ち取られるという苛烈な人生を歩んだお市。
よく通る声とともに高い空を飛び、夏鳥として南の国から日本のにわたってくるホトトギスは、二人のとって、あの世とこの世を行き来する支社だったのでしょうか。
もし戦乱の世でなかったら、二人はどんな出会い、どんな老後があったのでしょう。
翌朝未明、秀吉軍の総攻撃が始まりました。
凄惨な戦闘の末、勝家は天守閣の最上段に現れ、取り囲む秀吉軍に「わしの腹の切り方を見てよく勉強せよ」と呼びかけます。
その姿に秀吉軍が声を失い、静寂が訪れる中、勝家はお市を一刺しに刺し殺すと、自分は十文字に腹を切ったのでした。
カボチャが実っています。
生まれたてのカボチャも
カボチャの原産地はアメリカ大陸です。
コロンブスによってヨーロッパに持ち帰られ、世界中に広まりました。
16世紀にポルトガル船によって九州にもたらされ、南の方向から伝わった瓜なので「南瓜」とも中国の「南京」に由来す路ともいわれています。
カボチャと言えば、中学生の国語の授業で北原白秋の「糸車」の一節「金と赤との南瓜(とうなす)の二つ転がる板の間に、」を思い出し、改めて全体を読みたくなりました。
糸車
糸車、糸車、しずかにふかき手のつむぎ、
その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
赤と金との南瓜の二つ転がる板の間に、
「共同医館」の板の間に、
一人座りし留守番のその媼こそさみしけれ。
耳も聞こえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
微かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに、
水路のほとり月光の斜めに射すもしをらしや。
糸車、糸車、しずかに黙す手の紡ぎ、
その物思いやわらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
授業の時、一緒に他の寂しさの歌も教えてもらいました。
やはり北原白秋の歌です。
韮崎の白きペンキの駅票に
薄日のしみて光るさみしさ
寂しい歌を二つ教えてもらいましたがその時は特別な感慨もなったのですが、何故か未だに覚えています。
内面の奥深い処に沁みついてしまっているのでしょうか。