2021年10月26日

宿泊した東横インの裏口の前は

 

花時計公園になっていました。

 

木が紅葉していました。

 

東横イン近くで見つけたマンホールです。

サッカーJリーグのヤマガ松本のマンホール

 

松本てまりのマンホール

 

 

兎川寺に向かいます。

車で15分位です。

兎川寺の前には旧山辺学校舎があります。

 

 

恵日高照山兎川寺

 

石造の冠木門は明治時代に建立されました。

創建は飛鳥時代の聖徳太子によったと伝えられています。

 

歴代城主の帰依も深く、庇護されてきましたが、明治の廃仏毀釈で一時廃寺となりました。

その後再興されました。

本堂

 

文政3年(1820年)に建造されたものです。

本尊は千手観音で、脇侍は不動明王と毘沙門天です。

真言宗智山派に属します。

神仏習合の寺だったので狛犬が守護しています。

 

 

 

この地方はかつて養蚕が盛んでした。

その名残りが蠶影(こかげ)神社です。

蚕の神様です。

 

その他境内には

宝篋印塔

 

六地蔵

 

地蔵菩薩

 

四国88ケ所霊場

 

観音坐像

 

 

灯篭

 

枝垂桜

などがありました。

 

小笠原ボタン

 

 

毎年白い花が咲くそうです。

 

天文19年(1550年)に信州国松本治めていたのは小笠原長時でした。

小笠原長時は兎川寺近くの林城を居城としていました。

甲斐の武田晴信が攻めてきた時、小笠原長時は林城を棄てて北信濃の村上氏を頼りました。

その時大事にしていた白ボタンが敵に踏みにじられるのを惜しみ、祈願所であった兎川寺の住職に託して落ち延びていきました。

それ以来兎川寺檀家の久根下家が代々「殿様の白ボタン」として守り続けてきました。

これが小笠原ボタンなのです。

 

現在の松本城は石川数正によって築城されました。

石川数正も兎川寺を庇護した関係で、兎川寺には石川数正夫妻の供養塔があります。

 

石川数正は当初徳川家康の側近中の側近で、後に徳川家の家老に就任しています。

家康の嫡男信康の後見人になったり、西三河の旗頭を歴任し天正7年には岡崎城の城主となっています。

石川数正は羽柴秀吉が台頭すると、秀吉と徳川家の外交を任されますが、この間の心変わりして天正13年に徳川家を出奔し豊臣方に鞍替えしました。

出奔した理由は分かっていませんが、数正は8万石と言う外様の家臣としては破格の待遇を受けています。

小田原の役では豊臣方として従軍し、その功により松本城10万石が与えられています。

関ケ原の戦い後の慶長15年(1614年)には松本藩主に小笠原秀政が復権しています。

 

昭和になって、小笠原ボタンの話を久根下家の子孫が16代目の小笠原家当主である忠統氏に話したところ、いたく感動し白ボタンは400年以上の時を経て、林城の支城であった深志城改め松本城の本丸庭園に移植され、現在も見事な大輪を咲かせています。

松本城の小笠原ボタン