2017年8月14日、8月29日
生田神社のさざれ石は本殿後ろの戸隠社前にあります。生田の森のすぐ側です。
さざれ石は国歌君が代の中で、
君が代は、千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
と詠われています。
この歌詞は古今和歌集巻七 賀の部詠み人知らずからとったもので、古今和歌集では「我が君は」となっていましたが、これを「君が代」と改変し、天皇1人のことでなく、天皇のしろしめす御代、この日本の国全体と解されるようになりました。
さざれ石は小さい石で、これが巌となるには堆積して堆積礫岩になると考えられますが、多くの神社にあるさざれ石は石灰質角礫岩と呼ばれ、石灰岩が雨水に溶解され、それが再び小石を結集して凝固して出来上がったものです。
ですから正確にはさざれ石でなく、巌です。
薩摩の軍学生が英国公使館付き軍楽長フェントンについて軍楽の伝習を受けました。
彼らの宿舎は横浜の本牧山明香寺に決定しました。
フェントンが伝習生に国歌の必要性を説いたのがきっかけとなり、砲兵隊長大山巌が中心になり、古今和歌集からとった歌詞を選定し、フェントンが作曲しました。
君が代は明治3年9月8日に越中島で行われた天覧調練の時初めて演奏されました。
その為明香寺は国歌君が代の由緒地と言われます。
明香寺門前に国歌君が代由緒地の石碑が建っていました。
本堂と客殿にはさざれ石が置かれていて、本堂のさざれ石は誰でも見れますが、客殿は檀家さんが使用する建物なので、客殿のさざれ石は一般に開放されていません。
国歌君が代由緒地の石碑
本牧山明香寺山門
本堂
本堂のさざれ石
客殿のさざれ石
明香寺は日本吹奏楽発祥の地でもあります。
しかしフェントンの作曲した君が代は欧州風のコラール調で歌いにくいため、明治9年の天長節を最後に廃止されました。
この古い君が代は警察博物館で聞けるらしいです。
次いで明治13年宮内省音楽師林広守氏が作曲し、天長節に演奏されました。
明治21年にこの曲が「大日本礼式」の名のもとに、当時の条約各国に外務省を通じて送付されました。
そして明治26年に文部省告示により学校の儀式に君が代を斉唱することが制定されました。
さざれ石は神社に多いですが、寺には置いてあるところが可なり少ないです。