2015年2月26日
宿泊している盛岡駅前のホテルでパソコンをいじっている時、観光案内で厨川柵跡のことを知りました。
厨川柵は前九年の役で滅亡した阿部一族の最後の拠点で、城主は阿部頼時の次男貞任でした。
南の衣川柵と共に阿部氏の二大拠点でした。
厨川柵跡は阿部舘遺跡と里館遺跡の二つからなっています。
厨川柵跡はホテルからそれほど遠くないので、朝5時前に起きて朝食前に訪ねることとしました。
タクシーで10分ほど乗ると、阿部舘遺跡に着きます。
時間は5時頃でした。
阿部舘遺跡は現在の厨川八幡宮辺りです。

阿部貞任は「厨川次郎」と名乗り、前九年の役が起こった時は阿部氏の方が優勢でしたが、朝廷軍の源頼義に出羽の豪族清原氏が援軍に加わってから、阿部氏は次第に後退していき、厨川柵で全勢力を挙げて最後の決戦を挑みましたが、敗れて滅亡してしまいました。
阿部氏滅亡後は清原氏の所領となりましたが、後に奥州藤原氏が支配することになります。
文治5年(1189)に源頼朝が奥州藤原氏を討ち、頼朝の御家人工藤行光を地頭に任じます。
工藤氏は阿武氏館のあった現在の厨川八幡宮に本丸を置き、北側に北館、外舘、勾当舘を配し、南側に中舘、南館を造営しました。
現在残っている空堀は工藤氏時代のものです。
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遺構の空堀です。
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本丸の厨川八幡宮の入口付近
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厨川八幡宮の社号標
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八幡宮
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八幡宮の南側の稲荷神社と
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その隣に阿部貞任とその弟の宗任を祀った神社がありました。
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前九年の役で阿部貞任は処刑されましたが、弟の宗任は西国へ流刑となりました。
そして阿部宗任はその地で大な豪族に成長しました。
その名家の子孫が阿部元総理です。
東北地方の反逆者阿部氏が時を経て、現代社会において武力ではなく選挙と言う平和的な手段で天下を取るとは、歴史は本当に面白い。

阿部館遺跡から北西に約1kmの場所に里館遺跡があります。
タクシーでこちらにも回りました。
現在の厳鷲山天昌寺の辺りです。
天昌寺の社号標
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山門
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天昌寺の塀
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境内
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阿部貞任を祀った貞任園です。
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天昌寺は阿部氏が祈祷所としていた寺でしたが、その後工藤氏からも庇護を受け曹洞宗の寺となり、山号を岩手山からとり厳鷲山と号します。
天昌寺の聖観世音菩薩像は工藤氏代々の持仏で、明治時代に天昌寺に納められました。
この観音像の説明は
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里館遺跡の遺構の空堀跡でしょうか。
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最後になりましたが工藤氏が築城した厨川城は天正20年(1592)豊臣秀吉の「諸城破却令」により、廃城になってしまいました。

ホテルの戻り、次は志波城跡です。