2020年1月31日
与論島に着いて最初に向かったのが与論城跡でした。
15世紀初めの沖縄本島では南山、中山、北山に分かれて統治されていました。
北山王の怕尼芝の子珉の三男王舅が与論島に今帰仁城の支城を築き始めます。
しかし1442年に中山を制覇した尚巴志の按司護佐丸が、北山の今帰仁城も滅ぼしてしまいます。
その為与論城の築城は未完のまま中断してしまいます。
約100年後の16世紀初頭に、花城眞三郎が按司として与論に赴任し、壊れた城の修復をして按司の宿舎と公務執行の番所として使用しました。
城跡の海側の城塁は南北に長く、龍に例えられ、南側が龍尾北側が龍頭となっています。
今回は龍尾側から城塁に沿って歩いていきました。
城塁
海の見張り台の様な場所だったのでしょうか。
海の様子が分かります。
途中に海側からの道がありました。
この道は城の防衛上不利となるから築城を進めていた時は無くて、花城眞三郎按司の時代に海岸部との交通の利便性を考慮して造られたものでないかと推測しています。
与論島以北の島は沖縄より早く日本に返還されました。
日本返還記念石塔
これは日本全国の与論島出身者の浄財で建立されたものです。
沖縄の返還が遅れたため、1963年より沖縄が日本に復帰する1972年にかけて、サンフランシスコ条約が締結された4月28日に、当時の国境である北緯27度線上で、沖縄の祖国復帰を目指して本土側と沖縄側の関係者が艀や漁船に乗り込み、海上集会が行われたと言う案内板がありました。
海の先に北緯27度線や沖縄の辺戸岬がありますが、今日は天気が悪くて見えません。
友好の絆のヤンバルクイナ像が沖縄から送られてきました。
ヤンバルクイナの色が本物と違っていたため、すこぶる評判が悪かったそうです。
その為、後に実物の色と同じヤンバルクイナ像が海際の道路脇に設置されたそうです。
陸側の城塁は雑草などで覆われていて、分かりづらくなっていました。
海側と陸側の城塁に囲まれた部分が本曲輪なのでしょう。
本曲輪も低い城塁で4つの部分に仕切られていたようです。
その中で現在土俵がある辺りに天守のようなものを建てる予定だったと言われています。
現在の琴平神社と地主神社の辺りも小さな曲輪だったのかもしれません。
当初琴平神社の部分は岩場であって平坦でなかったのですが、明治期にダイナマイトで岩を砕き平坦にしてから、琴平神社が建てられました。
拝殿
本殿
その時できた穴から岩片を下に落としたそうです。
現在は安全のために一部蓋をしています。
この穴を城からの秘密の抜け穴と説明するガイドさんがいるようですが、その様な話はロマンがありますが、事実ではないと琴平神社の神主さんから教えてもらいました。
琴平神社は讃岐琴平神社、安芸厳島神社、太宰府菅原神社から勧請していた神社を合祀し、明治42年に移転されたものです。
地主神社は明治維新の廃仏毀釈で奄美の島々に高千穂神社を建立する際、妨げとなる与論の原始信仰である拝所の神々を合祀し、明治3年に城跡にある辺後地(ピグチ)拝所の傍らに小祠を建て、島の産土(うぶすな)様「大地主神」を祀ったものです。
辺後地(ピグチ)拝所はこちらです。
琴平神社の裏側、すなわち北側には与論城でもっとも標高の高い龍頭部分があります。
ここは海抜93mで与論島では2番目に高い所です。
ちなみに与論島で1番高い所は海抜97mです。
龍頭から北を望むと別の曲輪の城塁が見えます。
三の鳥居
石段を下りた右側に手水舎があります。
二の鳥居辺りが与論城の虎口になっています。
二の鳥居近くの城塁
一の鳥居
サザンクロスセンターの展望階から見た琴平神社
琴平神社拝殿の右手に授与所があり、地主神社の御朱印を頂きました。
与論城は今帰仁城の支城でしかも未完なので、今帰仁城跡と比較すればかなり見劣りはしますが、城塁の遺構はしっかりと残っていて、奄美地方のグスクの形をしていました。
この後琴平神社の側にあるサザンクロスセンターに入館します。