金子堅太郎は、戦前まで政治家・歴史家・法律家など多様な顔をもって重要な政策を実現へ導きました。

 ”金子堅太郎 伊藤博文の懐刀”(2026年1月 弦書房刊 浦部 登著)を読みました。

 金子堅太郎について、その前半生を中心に紹介しています。

 金子堅太郎は、嘉永6年(1853)3月13日筑前国福岡鳥飼村生まれ、福岡藩士の子でした。

 少年時代は、正木昌陽の私塾・不狭舎で学びました。

 文久3年(1863)に、藩校修猷館に入学して朱子学を学びました。

 明治4年(1871)に、旧福岡藩主黒田長知に随行してアメリカに留学しました。

 ハーバード大学ロースクールで、法律・憲法・国際法を学びました。

 明治11年(1878)に卒業して帰国し、東京大学予備門の英語教師となりました。

 明治13年(1880)に元老院に雇用されて書記官となり、権大書記官、首相秘書官等を務めました。

 明治17年(1884)に、井上毅らと大日本帝国憲法起草に着手しました。

 大日本帝国憲法、皇室典範を筆頭に、近代日本の諸法典を整備しました。

 その後、伊藤博文総理秘書官、貴族院議員、農商務次官等を歴任しました。

 第3・4次伊藤内閣の下で、1898年に農商務大臣、1900年に司法大臣を務めました。

 明治37年(1904)に、日露戦争の広報・外交の特命で渡米しました。

 大正6年(1917)に、日米協会の初代会長に就任しました。

 1925年に、排日移民法に反対して辞任しています。

 枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任しました。

 帝室編纂局総裁となり、明治天皇紀完成の功により昭和9年(1934)に伯爵を叙爵しました。

 帝国大学法科大学や慶應義塾で法学を講じ、日本法律学校初代校長、二松學舍舎長などを務めました。

 1942年5月16日に、神奈川県葉山で没しました。

 墓所は、福岡市唐人町の成道寺にあります。

 浦辺登さんは1956年福岡県筑紫野市生まれ、東福岡高等学校、福岡大学文学部を卒業しました。

 大学ドイツ語学科在学中から雑誌への投稿を行い、卒業後もサラリーマン生活の傍ら投稿を続けました。

 近年は、インターネットサイトの書評投稿に注力しています。

 作家、文芸評論家、書評家として、日本の近代史を中心に研究しています。

 地元福岡で学習会を主宰し、オンラインでも歴史講座を行い、要請があれば各地で講演を行っています。

 金子堅太郎は、明治4年(1871)に、藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学しました。

 はじめは、ボストンのグラマー・スクールに入学し、飛び級で卒業しハイスクールに入学しました。

 中途退学後、ハーバード大学ロースクールに入学しました。

 入学前に、ボストンの弁護士オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアに師事しました。

 この弁護士は、後にハーバード大学教授、連邦最高裁判事となった人物でした。

 そして、ヘンリー・スイフトとラスル・クレイの共同法律事務所に通い勉強しました。

 ハーバード入学後、小村壽太郎と同宿し勉学に励みました。

 在学時代、ハーバード大学哲学教授のジョン・フィスクハにも個人的に教示を受けました。

 学外では、著名な政治家・議員・文学者・哲学者・ジャーナリスト等の知識人と交際しました。

 在学中に、大学のOBである、セオドア・ルーズベルトと面識を得ました。

 ハーバード大学を卒業し、Bachelor of Lawsの学位を受けました。

 明治11年(1878)に卒業して帰国し、都市民権政社の社員となりました。

 小野梓、馬場辰猪らと、共存同衆に所属して活発に自由民権運動を行いました。

 明治13年(1880)に、嚶鳴社の河津祐之と沼間守一の紹介で元老院に出仕しました。

 同年に、青森県令の山田秀典の次女・弥寿子と結婚しました。

 元老院権閣の総理秘書官に就任し、のちに大書記官に昇格しました。

 のち、太政官権大書記官兼元老院権大書記官、次いで制度取調局御用掛となりました。

 明治18年(1885)以降は、内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで仕事を行いました。

 井上毅、伊東巳代治らとともに、大日本帝国憲法・皇室典範、諸法典の起草にあたりました。

 明治22年(1889年)から翌年にかけて、欧米諸国を視察しました。

 帰国後、日本法律学校、現在の日本大学初代校長に就任しました。

 貴族院勅選議員、初代貴族院書記官長を務めました。

 さらに、国際公法学会会員としてスイス・ジュネーヴでの国際会議に出席しました。

 以後、伊藤内閣の農商務次官、農商務大臣、司法大臣を歴任しました。

 農商務次官在任中に製鉄事業調査会の委員長を務め、官営八幡製鐵所の設置を決めました。

 明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて船で渡米しました。

 ルーズベルト大統領に接触し、全米各地で講演を行い、アメリカ世論に日本の立場を訴えました。

 明治38年(1905)年のポーツマス会議で、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求めました。

 明治39年(1906)年に枢密顧問官に任じられ、自ら憲法の番人と称しました。

 生涯にわたり、日米友好のために尽力しました。

 憲法制定の功により、ハーバード大学から名誉法学博士(L.L.D)の学位を受けました。

 その後、米友協会会長、日米協会会長などを歴任しました。

 しかし、金子堅太郎関連の文献は、思った以上に少ないといいます。

 金子堅太郎という人物については、記憶はあるが詳しくは知らない、という人が多いそうです。

 多方面にわたる功績、人間関係がありながら、金子堅太郎はずっと研究対象にならなかったのです。

 その大きな原因は、関東大震災で金子に関する記録が無くなってしまったからです。

 また、亡くなったのが太平洋戦争の最中である1942年5月でした。

 戦後、経済成長に必死だった日本では、金子と親しく接した人々は鬼籍に入っています。

 現在、筆者が特筆すべき功績として挙げるのは、次の通りです。

 一、大日本帝国憲法制定において、伊東巳代治、井上毅とともに伊藤博文を支えた。

 二、日露戦争における国際世論形成で渡米し、米国大統領ルーズベルトの支援を獲得した。

 三、明治維新史の編纂事業を行った。

 四、福岡藩校修猷館を新制の中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高校)として復興した。

 五、九州帝国大学(現在の九州大学)を誘致した。

 六、官営八幡製鉄所(現在の日本製鉄)を誘致した。

 ほかに、日本美術、証券取引、日本興業銀行創設、筑前琵琶の再興、近代演劇の支援などもあります。

 金子が晩年に刊行しようと考えていたらしい、「自叙伝」を基に人物像に迫っているとのことです。

 自叙伝は、日本大学精神文化研究所から福岡市立総合図書館に寄贈されていたといいます。

はじめに/1 金子を育んだ土壌と時代/第一章 金子家再興の期待を背負う

2 新興国アメリカに学ぶ/第二章 アメリカ留学/第三章 ハーバード大学時代

3 人脈形成と応用/第四章 猪突猛進、大車輪の時代/第五章 伊藤博文の側近として

4 日本の土台作り/第六章 帝国憲法草案/第七章 八幡製鉄所

5 国難に果敢に挑戦する/第八章 政府の閣僚、貴族院議員、枢密顧問官時代/第九章 日露戦争と金子堅太郎/第十章 日米の架け橋として

6 華族としての責務と私人/第十一章 学術、芸術、芸能、郷土の発展に寄与/第十二章 金子と金子家の日常/[資料]金子堅太郎の日系移民排斥問題寄稿文について/金子堅太郎年譜/あとがき/主要参考文献・参考資料

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