藤堂高虎は、1556年に近江国犬上郡藤堂村に藤堂虎高の次男として生まれ、幼名を与吉と言いました。

 ”藤堂高虎 侍は討ち死に仕り候が本義ニ候”(2026年1月 ミネルヴァ書房刊 藤田 達生著)を読みました。

 織豊期に7人の主君に仕え豊臣秀長に見出されて大名となり、徳川家康・秀忠の側近として生涯を幕藩体制確立のために尽くした、高虎の生涯を紹介しています。

 1570年に浅井氏に仕え、姉川の戦いで初陣を飾りました。

 1573年に磯野丹波守員昌に仕え、80石を与えられました。

 1576年に木下秀長に仕え、300石を与えられ与右衛門と称しました。

 1578年に羽柴秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦いました。

 1580年に秀長に従い丹波に入り、戦功により3,000石加増され3,300石となりました。

 1581年に但馬養父郡大屋村の栃尾祐善の媒酌で、一色修理太夫の女と結婚しました。

 1582年に秀吉の山陽・山陰攻略に従い、秀長旗下として戦い、本能寺の変後、山崎の戦いに従いました。

 1583年に賤ヶ岳合戦に戦功し、秀吉より1,000石、秀長より300石の加増を受け4,600石となりました。

 1585年に紀伊国平定のため秀長に従い、根来衆・熊野攻略に向かい四国長曽我部氏と戦いました。

 戦功により5,400石加増され1万石になり、大名格の身分となりました。

 秀長の和歌山城築城に際して、築城奉行となりました。

 1586年に秀吉が家康と縁を結び、家康の上洛に際して家康の京都邸造営を担当しました。

 1587年に秀吉の九州への出陣に際し、秀長軍の先鋒となり島津氏と戦いました。

 戦功により従五位下の佐渡守となり、1万石加増され紀州粉河2万石の大名となりました。

 1590年に秀長軍を率い北条氏と戦いましたが、翌年に秀長が死去し領地を受けて嗣子秀保の後見役となりました。

 1595年に秀保が急逝し、嗣子がないため主家廃絶となり高野山に入りました。

 秀吉に請われて下山し、5万石加増され伊予宇和島7万石になり宇和島城を築きました。

 1596年に朝鮮出兵して水軍を指揮し、1598年に戦功により1万石加増され8万石の大名となりました。

 1600年に、関ヶ原の戦いで東軍に属して勝利しました。

 12万石を加増されて、伊予今治に封ぜられ20万石となり今治城を築きました。

 藤田達生さんは1958年愛媛県新居浜市生まれ、1981年に愛媛大学教育学部中学校教員養成課程を卒業しました。

 1987年に神戸大学大学院博士課程を修了し、学術博士の学位を取得しました。

 専門分野は、日本近世国家成立史の研究です。

 同年に神戸大学助手、1993年に三重大学教育学部助教授、2003年に教授となりました。

 2015年に、三重大学大学院地域イノベーション学研究科教授を兼任しました。

 2017年に織豊期研究会会長となり、2021年に三重大学副学長、2024年に特任名誉教授となりました。

 藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名です。

 伊予今治藩主となり、後に伊勢津藩の初代藩主となりました。

 藤堂氏は、近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県犬上郡甲良町在士が発祥です。

 戦国時代に藤堂高虎が出て、江戸時代に津藩を領する外様大名となり、維新後は華族の伯爵家に列しました。

 高虎は藤堂家宗家であり、津藩藤堂家の初代です。

 高虎は、黒田官兵衛、加藤清正と並び、築城三名人の一人とされます。

 江戸城をはじめ、駿府城・伏見城・犬坂城など数多くの築城の縄張りを担当しました。

 高虎は、層塔型天守や高石垣をシンボルとする近世城郭と、開放的な近世城下町を建設しました。

 石垣上には、多聞櫓を巡らす築城が巧みでした。

 そして、それらが有機的に配漑される近世都市の規範を示しました。

 大名が建築家であり都市プランナーであるというのは、築城ブームだった江戸時代草創期らしいです。

 1606年に江戸城修築で、天守閣築造の設計、二の丸・三の丸を増築し2万石加増されました。

 1608年に伊賀・伊勢へ転封となり、伊賀、伊勢・一志郡、伊予国に渡る223,950石余の石高となりました。

 1615年に大坂夏の陣に従軍し、戦功により、伊勢の内で5万石加増され、273,950石余となりました。

 外様大名でありながら、徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する立場にありました。

 たとえば、関ヶ原の戦いの恩賞の調整に、井伊直政とともに関与しました。

 犬坂の陣では、井伊直孝とともに先鋒を任され譜代大名を率いました。

 高虎は、外様大名という範躊には収まらない存在でした。

 公儀普請のために現地逗留した以外は、駿府の大御所家康や江戸の将軍秀忠のもとに伺候していました。

 幕府の重臣会議にも参画し、本多正信・正純父子や以心崇伝や南光坊天海とも懇意でした。

 1616年に家康が死去し、日光東照宮造営にあたりました。

 家康没後も、秀忠の覚えめでたい側近としての立場を築きました。

 晩年においても、大御所様衆として認識されていました。

 1617年に、伊勢国田丸5万石加増されて323,950石余りとなり、津藩の石高が確定しました。

 1630年に眼疾により失明し、10月5日に享年75歳で死去しました。

 徳川家譜代の家臣筋でもない高虎が、なぜかくも天下人から信頼を獲得したのでしょうか。

 本書は、高虎が戦国時代に誕生し江戸柳原の藩邸で死去するまでの、75年に及ぶ足跡を追います。

 そして、天下人とともに人生をかけて取り組んだ新たな武家国家建設の道程を詳しく見てゆくといいます。

 多様な人材が歴史の表舞台で躍動した時代にあって、高虎は代表的な先覚者の一人であったということです。

 高虎は、戦時には一流の参謀であり戦巧者でした。

 平時には、都市プランナー・行政官・外交官など多彩な顔をもっていました。

 特に活躍したのは、朝廷や西国の外様大名と大御所・将軍・幕閣との取り次ぎ役としてです。

 高虎は、関ヶ原の戦いや大坂の陣などの大規模戦争において、徳川方の勝利に大きく貢献しました。

 次に、大規模な馬出を配置する新型城郭を確立し、数々の天下普請に中心的に関与しました。

 次に、幕府の要請により、熊本藩や高松藩などで、後の国目付の役割を果たすことがありました。

 次に、駿府と江戸を往復して、家康と秀忠が一丸となって政権運営することを側面から支えました。

 次に、公武融和のために自ら京都に乗り込み、幕府と朝廷や西国諸大名との関係の円滑化に貢献しました。

 そして、重要事項決定に際し意見を求められたり、幕府の重臣会議に出席したりすることがありました。

 著者は、当時は、朝廷や外様大名たちの意志を幕府につなぐ交渉役・斡旋人が不可欠だったといいます。

 その役どころをしっかりと担つたのが、高虎その人だった、と理解しているといいます。

はじめに/第一章 大和豊臣家/第二章 家康側近への道/第三章 最前線の藩/第四章 徳川公儀を創る/第五章 藩士群像/第六章 寛永政治への参画/参考文献/おわりに/略年表

 

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