三浦義村は桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男として生まれたとされますがるが、正確な生年は不明です。

 義澄は桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、鎌倉幕府の御家人でした。 

 ”三浦義村 ”(2023年10月 吉川弘文館刊 高橋 秀樹著)を読みました。

 ごく最近まで未知の存在だった、鎌倉時代初期の相模国の武将で幕府の有力御家人の三浦義村の生涯を紹介しています。

 1184年8月に、源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに従軍しました。

 これが史料で確認できる初めての従軍です。

 この追討軍の参加資格は17歳以上でした。

 著者は、義村がこれ以前に従軍した形跡がないことから、この年に17歳になった可能性が高いとしています。

 このことから、生年は1168年ころと推定されます。

 義村は、父義澄とともに平家追討や奥州合戦を転戦しました。

 家督を継ぐと、鎌倉での政争や将軍実朝暗殺、承久の乱を北条氏と共に乗り越えました。

 北条義時・政子の死後、執権泰時と協調して新体制を支えました。

 高橋秀樹さんは1964年神奈川県生まれ、1989年に学習院大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。

 1996年に同博士課程を修了し、「日本中世の家と親族」で博士(史学)となりました。

 1992年に日本学術振興会特別研究員、1994年に放送大学非常勤講師となりました。

 1995年に国立歴史民俗博物館非常勤研究員、1998年に東京大学史料編纂所研究員となりました。

 2018年から、國學院大學文学部史学科教授を務めています。

 三浦義村は幼名を平六といい、「吾妻鏡」の1182年8月11日条に初めて登場しています。

 また、源頼朝正室の安産祈願のため伊豆・箱根の寺社に遣わされた使者の中に、平六の名前が見えます。

 1190年の源頼朝上洛時に右兵衛尉に任じられ、のちに左衛門尉となりました。

 1199年に頼朝が亡くなると、幕府内部における権力闘争が続発しました。

 梶原景時は、侍所所司として御家人たちの行動に目を光らせる立場にありました。

 景時は、結城朝光の御所での発言を謀叛の証拠であると将軍頼家に讒言しました。

 窮地に立たされた朝光は義村に相談しました。

 義村は和田義盛、安達盛長と相談の上、景時を排除することを決断しました。

 有力御家人66人が連署した景時糾弾訴状を、頼家の側近・大江広元に提出しました。

 景時を惜しむ広元は当初は躊躇しましたが、最終的には頼家に言上しました。

 これにより、景時は失脚して所領の相模国一ノ宮の館に退きました。

 翌正月、景時は一族を率いて上洛の途に就き、義村は幕府の命で追討軍の1人として派遣されました。

 追討軍が追いつく前に、景時一族は駿河国清見関にて在地の武士たちと戦闘になりました。

 嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時も付近の西奈の山上にて自害しました。

 1205年に北条時政の後妻・牧の方の娘婿・平賀朝雅の讒訴により、畠山重忠と嫡子・重保に謀叛の疑いが浮上しました。

 時政は2人を成敗することを決断し、義村の命を受けた佐久間太郎らが重保を由比ヶ浜で取り囲み殺害しました。

 さらに、武蔵から手勢を引き連れて鎌倉に向かう重忠の討伐軍が編成されると、義村も参加しました。

 両軍は二俣川で合戦に及び、激戦が繰り広げられたのち、重忠は矢に討たれて討死しました。

 しかし事件後、謀反の企てはでっち上げであったことが判明しました。

 稲毛重成父子、榛谷重朝父子は重忠を陥れた首謀者として、義村らによって誅殺されました。

 1213年2月に、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見しました。

 義村の従兄弟で侍所別当であった和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛されました。

 その後、息子2人は配慮されて赦免になりましたが、義盛は一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請しました。

 しかし、胤長は首謀者格と同等として許されず流罪となりました。

 北条氏と和田氏の関係は悪化し、義盛は親族の三浦一族など多数の味方を得て打倒北条を決起しました。

 しかし、義村は弟の胤義と相談して直前で裏切り義時に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付きました。

 戦いは義時が将軍源実朝を擁して多数の御家人を集め、義盛を破り和田氏は滅亡しました。

 1219年1月に、将軍実朝が兄の2代将軍源頼家の子の公暁に暗殺されました。

 公暁は義村に書状を持った使いを出し、義村は偽って討手を差し向けました。

 公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで、討手に遭遇しました。

 激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとしたところを殺害されました。

 1221年の承久の乱では、検非違使として在京していた弟の胤義から決起をうながす書状を受けとりました。

 しかし、義村は使者を追い返した上で義時の元に向かい、事を義時に通報するという行動に出ました。

 その後、軍議を経て出戦と決まると、義村は東海道方面軍の大将軍の一人として行動しました。

 東海道を上り、東寺で胤義と相対しました。

 胤義は兄に熱く呼びかけましたが、義村は取り合わず、その場を立ち去りました。

 その後、胤義は子の胤連、兼義とともに現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社で自害しました。

 乱終息後の戦後処理でも義村は活躍し、同年7月、紀伊国守護に任ぜられたと推測されます。

 このとき、義村自身は紀伊に入らず、孫の三浦氏村が代わりに入国しました。

 そして、上皇方の所領の没収、新補地頭の設置などにあたりました。

 1224年に北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子の北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとした事件が起こりました。

 政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わり、北条政子が単身で義村宅へ問いただしに訪れたことにより翻意しました。

 釈明して二心がないことを確認し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾しました。

 1225年夏には、大江広元・北条政子が相次いで死去しました。

 同年12月に執権北条泰時の下、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任しました。

 幕府内では北条氏に次ぐ地位となり、1232年の御成敗式目の制定にも署名しました。

 4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子の泰村と共に近しく仕えました。

 その後、幕府では駿河守、相模、河内、紀伊、土佐の守護、評定衆などを歴任しました。

 このように大活躍した義村であったが、ほとんどの日本人にとって、ごく最近まで三浦義村は未知の存在でした。

 理由は、義村の名は中学校の歴史教科書や高等学校の日本史教科書に登場しなかったからです。

 子の泰村は、1247年におきた宝治合戦で滅ぼされた存在としてほとんどの高校教科書に書かれています。

 父の義澄も、いわゆる「士三人の合議制」の一人として名を載せている教科書があります。

 しかし、北条氏に討たれなかったためか、義村の名を記す教科書はありません。

 滅ぼされた、梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、二浦泰村は敗者として記述されています。

 北条氏の協力者あるいはライバルとみられている義村には、出る幕がありませんでした。

 義村の態度は常に北条氏に利益を与え、それによって自らの存在意義を高めました。

 一方で、他氏に対しては不遜な行動もあったといわれ、義村に対する無関心、低評価の流れがありました。

 このような中で、初めて義村に強い関心を寄せたのが作家の永井路子氏でしょう。

 1964年の直木賞受賞作「炎環」で、源実朝暗殺事件の黒幕として義村を描きました。

 1978年の「執念の家譜」で、その一族の歴史をたどりました。

 1999年にはじまった横須賀市史編纂事業による約3300点の史料収集と分析によって、三浦氏研究は一変しました。

 2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、三浦義村には準主役の役割が与えられました。

 これによってそれまでほとんど知られていなかった義村が広く認知されるところとなりました。

 しかし、そこで描かれた人物像はあくまで脚本家と演出家・演者が作り上げたものです。

 内容は、現在の研究者が史料の分析から導き出した義村像とはかなり異なっています。

 本書の主眼は三浦義村の人生をたどることにあるといいます。

 まず、義村の活動の前提となる平安時代末期から頼朝の挙兵前後に至る三浦一族の歴史を略述しています。

 次に、義村の子や所領などについて、各人・各地ごとにまとめて記しています。

 また、義村を語る上で欠かせない文献史料、文化財、史蹟について解説しています。

第1 義村の誕生/第2 若き日の義村/第3 宿老への道/第4 義村の八難六奇/第5 最期の輝き/第6 義村の妻子と所領・邸宅・所職、関係文化財


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