喜多川歌麿は姓は北川、後に喜多川と改め、幼名は市太郎、のちに勇助または勇記と言いました。

 ”もっと知りたい 喜多川歌麿 生涯と作品”(2024年4月 東京美術刊 田辺 昌子著)を読みました。

 総数約1900点という膨大な多色刷木版画の錦絵を残した、喜多川歌麿の画歴と作品を紹介しつつ、絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えようとしています。

 歌麿は生年、出生地、出身地などは不明で、生年は没年数え54歳からの逆算で1753年とされることが多いです。

 出身は川越説と江戸市中の2説が有力ですが、他にも京、大坂、近江国、下野国などの説もあります。

 名は信美、初めの号は豊章といい、天明初年頃から歌麻呂、哥麿と号しました。

 生前は「うたまる」と呼ばれましたが、19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったといいます。

 1782年刊行の歳旦帖「松の旦」には、鳥山豊章、鳥豊章の落款例があります。

 俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆綾丸ふでのあやまる、紫屋と号し吉原連に属しました。

 1790年に絵本の仕事をやめ大首絵を発表して、一躍人気絵師となりました。

 遊女から市井の娘まで、歌麿が美人を描けば天下一品です。

 名品の数々が、蔦屋重三郎をはじめとした版元と策をめぐらして生み出されました。

 田辺昌子さんは1963年東京都生まれ、学習院大学人文科学研究科博士前期課程を修了しました。

 永青文庫学芸員を経て千葉市美術館の開設に準備室段階から関わり、現在副館長を務めています。

 鈴木春信を中心に浮世絵の研究に携わっています。

 2008年に第1回國華賞展覧会図録賞共同受賞、2018年に第34回國華賞を受賞しました。

 喜多川歌麿は鳥山石燕のもとで学び、初作は1770年の北川豊章名義の絵入俳書の挿絵1点です。

 歌麿名義では、1783年の「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」が最初期と言われます。

 1788年から寛政年間初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として、狂歌絵本などを版行しました。

 当時流行していた狂歌に花鳥画を合わせた「百千鳥」「画本虫撰」「汐干のつと」などです。

 1790年から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などの美人大首絵で人気を博しました。

 「当時全盛美人揃」「娘日時計」「歌撰恋之部」「北国五色墨」などの、大首美人画の優作を刊行しました。

 一方、最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとしました。

 また、蔦重と連携して彫摺法を用い、肌や衣裳の質感や量感を工夫しました。

 やがて「正銘歌麿」という落款をするほど、美人画の歌麿時代を現出しました。

 さらに、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられます。

 歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘などを対象としました。

 歌麿が取り上げることによって、モデルの名はたちまち江戸中に広まりました。

 これに対し、江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えました。

 歌麿は判じ絵などで対抗し、美人画を描き続けました。

 1804年5月に「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことから、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けました。

 当時は、織豊時代以降の人物を扱うことが禁じられていました。

 これ以降、歌麿は病気になったとされ、2年後の1806年に死去しました。

 墓所は世田谷区烏山の専光寺で、戒名は秋円了教信士です。

 浮世絵師といえば、最初に思い浮かべれるのが喜多川歌麿です。

 次に思い浮かぶのは、切手になった作品、婦人相学十鉢のポヘンを吹く娘あたりでしょうか。

 歌麿は、現在確認されている数でいえば、総数約1900点という膨大な錦絵を残しています。

 その作品をすべて網羅して語ることは難しいものの、本書ではその画歴と作品を早回しで紹介しつつ、この絵師の魅力のエッセンスをしっかり伝えたいといいます。

 これだけ有名であっても、歌麿のプライベートな情報には語るべきことがほとんどないそうです。

 確実なのは亡くなった文化3年=1806年という年です。

 生年については一説に宝暦3年=1753年とされるものの、当時の記録によるものではなく詳細は不明とされています。

 少年時代に町狩野の絵師である鳥山石燕の門人となり、錦絵出版界に入りました。

 当初は、一般的な新人浮世絵師と同様に、細判の役者絵など安価な商品をまかされるだけでした。

 それが版元の蔦屋重三郎に見い出されて、そのプロデュースによって飛躍的な変貌を見せて優れた美人画を出すようになりました。

 蔦屋は、吉原の妓楼と遊女の案内書の役割をした「吉原細見」を出していました。

 1782年ころ、蔦屋は出版界のメインストリートの日本橋通油町に出店しました。

 先に活躍していた鳥居清長の向こうを張るように、大判錦絵、しかもその続絵の美人画を歌麿に制作させました。

 そして、天明(1781~1789)後期から寛政(1789~1801)初期に、画期的な彩色摺絵大狂歌本7種を手がけました。

 そこでは、美人画家という印象をくつがえすほどの、精緻で写実的な描写で生き物や植物を表わしました。

 そして美入画を代表するのが、寛政(1792~1793)頃の錦絵で、顔を大きくとらえた大首絵です。

 その題材には、当時美人で評判の市井の娘たちを多く描き、大衆の注目を一気に集めました。

 同様に「観相物」と呼ばれるジャンルを打ち立て、その女性の性格や心情に思い至らせました。

 しかしスター絵師であるがゆえに寛政の改革で、出版界でも一番に狙われたターゲットでした。

 一枚絵に評判娘の名を入れること、それを絵で表すこと、大言絵までも禁じられました。

 ついには文化元年=1804年に、罰を受けることになりました。

 喜多川歌麿という希代の浮世絵師の画業を振り返ってみると、主に2つの事象が、その作品内容を大きく左右したことに気がつくといいます。

 ひとつは蔦屋重三郎との出会いとその活躍、加えてほかの版元の参入も含めた、版元との関わりです。

 そしてもうひとつは、寛政の改革による、歌麿をはじめとする錦絵出版界への厳しい統制です。

 蔦屋という版元との出会いによって、なぜ歌麿が突然のように素晴らしい美人画を描くことができるようになるのでしょうか。

 美人画家だと思われていた歌麿が、なぜ急に精緻な自然観察にもとづく写実的な絵を描けたのでしょうか。

 寛政の改革によって、大衆が好む表現というものも、大きく軌道修正せざるを得ない事態がくり返されました。

 最終的には処罰され、晩年は力の入った錦絵が見られなくなりました。

 それでも筆を折らなかったのはなぜでしょうか。

 最後まで歌麿が錦絵界から完全に離れた様子はありません。

 歌麿にとって、錦絵に大衆に支持される絵を描くことは、挑戦的な喜びであったようにも思えます。

 さらに、大衆を相手にしたビジネスで勝負して、短期間に次々と作品を出しました。

 歌麿は、そのようななかで感じる高揚感を、新興の版元とともに得ていたのではないでしょうか。

 才気あふれるこの絵師の大量の作品を前にして、まだまだ語りつくせぬドラマがあることを予感するといいます。

はじめに/序章 浮世絵師・歌麿の誕生まで/第1章 新興版元 蔦屋との出会い(歌麿の変貌;彩色摺絵入狂歌本の世界)/第2章 美人画革命 大首絵の成功(美人大首絵と寛政三美人;青楼の画家 歌麿)

/第3章 蔦屋を追う出版界の動向(蔦屋に対抗する版元たち;日常を活写する眼 蔦屋亡き後の歌麿)/第4章 禁制下の動向(歌麿と寛政の改革;肉筆画の世界)/特集 生涯をかけた大作 雪月花/おわりに
 

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