川路利良は1834年に薩摩藩与力の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区生まれました。

 ”川路利良 日本警察をつくった明治の巨人”(2024年1月 講談社刊 畑中 章宏著)を読みました。

 薩摩藩の下級武士の家に生まれ幕末の激動の時代を生き国家と警察組織に一身を捧げ初代大警視となった、川路利良の生涯を描いています。

 川路家は身分の低い準士分でしたが、16世紀に横川城主だった北原伊勢介の末裔とされます。

 北原氏は肝付氏庶流で横川城落城後に北原伊勢介の一族は蒲生に逃れ、川路氏と名乗りを変えたといいます。

 重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学びました。

 島津斉彬のお伴として初めて江戸に行き、薩摩と江戸をつなぐ斥候的役割の飛脚として活動しました。

 大久保利通の腹心の部下で、戊辰戦争に参加しました。

 1872年にイギリス・フランスに渡り警察制度を研究し、帰国後に警察を司法省より内務省に移管しました。

 1974年に警視庁が創設された際に大警視に就任し、治安維持に尽くしました。

 西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、別働第三旅団を率いて西郷軍に大きな打撃を与えました。

 欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した、日本の警察の創設者であり日本警察の父とも言われています。

 加来耕三さんは1958年大阪市生まれ、1981年に奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学文学部研究員として2年間勤務しました。

 1983年より執筆活動を始め、歴史的に正しく評価されていない人物や組織の復権をテーマに著作活動などを行っています。

 講演活動やテレビ番組、ラジオ番組などの出演も数多くこなし、テレビ番組では監修、時代考証、構成も手掛けました。

 観光大使としては、2018年に港区観光大使に、2019年に薩摩大使に、2019年に柳川市観光大使に就任しています。

 このほか、内外情勢調査会、地方行財政調査会、外交知識普及会、政経懇話会、中小企業大学校などの講師を務めました。

 1874年に創設された東京警視庁が、2024年に150年目となりました。

 東京警視庁は発足3年で内務省警視局に吸収されましたが、今日の警視庁の第一歩は東京警視庁にあります。

 これはそれまでの日本になかった、近代的な警察制度です。

 ほぼ独力で東京警視庁を創り、今日なお日本警察の父と呼ばれるのが川路利良の存在です。

 本書では、薩摩藩下層から出て一代で藩士となり、ついに東京警視庁を創った川路の生涯を紹介しています。

 1830~1844年の天保年間は、幕末の入口に相当する時代でした。

 幕藩体制は弛緩し、事実上、経済はすでに破綻していました。

 夢も希望も抱きにくいこの時代に、遅れていた日本に明治の時代を築く人々が輩出しました。

 1840年には隣国の清がイギリスとの阿片戦争を本格化させ、清がイギリスに敗れました。

 南京条約を結ばされ、広州・福川・厦門・寧波・上海を開港し、香港を割譲させられました。

 その衝撃は大きく、日本の心ある人々は次は日本が狙われると怖気をふるいました。

 大半の日本人は悲嘆に暮れるか観するかで、何もしない日常を送っていました。

 その中にあって、わずかな人々だけが自国独立の尊厳を守るべく立ち上がりました。

 1864年に禁門の変で、長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げました。

 1867年に藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学びました。

 1868年に戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに、薩摩官軍大隊長として出征しました。

 上野戦争では、彰義隊潰走の糸口をつくりました。

 東北に転戦し磐城浅川の戦いで敵弾により負傷しましたが、傷が癒えると会津戦争に参加しました。

 1869年に戦功により、藩の兵器奉行に昇進しました。

 1871年に西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事・典事に累進しました。

 1872年に邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団の一員として欧州各国の警察を視察しました。

 帰国後、警察制度の改革を建議し、パリ警視庁のポリスを模範とする警察機構を日本に築こうとしました。

 ポリスとは終日、市中を巡回したり毅然と街頭に立ったりして、国民の生命・財産を守る人々のことです。

 しかし、国民はポリス=警察官をこれまでに見たことがありませんでした。

 徳川時代の与力・同心・岡っ引などは今日のような民主的なものではありませんでした。

 まったく知らないものを認知させるには、多くの労力が必要でした。

 新生日本では国民はポリスは保護者でなければならないと、川路は主張しました。

 そのため、警察官一人ひとりに課せられた責務は、重く厳しいものでした。

 1874年に警視庁創設に伴い、満40歳で初代大警視に就任しました。

 執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回ったといいます。

 1873年に政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くがこれに従いました。

 しかし、川路は忍びないが大義の前には私情を捨てて、あくまで警察に献身すると表明しました。

 大久保利通から厚い信任を受け、不平士族の喰違の変や佐賀の乱では密偵を用いて動向を探りました。

 薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を、帰郷の名目で鹿児島県に送り込みました。

 川路は不平士族の間では大久保と共に、憎悪の対象とされました。

 1877年の西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任し、別働第三旅団の長として九州を転戦しました。

 激戦となった田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けました。

 5月に大口攻略戦に参加した後、6月に宮之城で激戦の末、西郷軍を退けて進軍しました。

 その後川路は旅団長を免じられ東京へ戻り、旅団長は大山巌が引き継ぎました。

 1879年1月に再び欧州の警察を視察しましたが、船中で病を得てパリに到着しました。

 当日はパレ・ロワイヤルを随員と共に遊歩しましたが、宿舎に戻ったあとは病床に臥しました。

 咳や痰、時に吐血の症状も見られ現地の医師の治療を受けましたが、病状は良くなりませんでした。

 同年8月に郵船に搭乗して10月に帰国しましたが、病状は悪化し享年46歳で死去しました。

 川路は武家の末端に生まれながら、幕末の動乱で名を上げ、明治日本の新国家樹立に参画しました。

 自らの命を賭して警察機構を作り上げ、大警視まで上り詰めた川路の生涯は大いに参考になるといいます。

序章 幕末の動乱(与力・川路正之進/「貧乏に負くるこっが恥でごわす」 ほか)/第1章 新国家の樹立をめざして(薩英戦争で得たもの/文久の政変 ほか)/第2章 戦火の中の新政府(比志島抜刀隊の誕生/大政奉還から王政復古の大号令へ ほか)/第3章 東京警視庁の誕生(官軍、方向を転ず/“川路の睾丸”の由来 ほか)/第4章 “大警視”の生と死(相相次ぐ長州人の汚職/征韓論争と川路の立場 ほか)


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