佐々木惣一は1878年鳥取県鳥取市生まれ、鳥取県尋常中学校、現、鳥取県立鳥取西高等学校、第四高等学校を経て京都帝国大学法科大学で学びました。
”佐々木惣一 ”(2024年2月 ミネルヴァ書房刊 伊藤 孝夫著)を読みました。
大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し、戦後は憲法改正案の起草にあたった憲法・行政法学者の佐々木惣一の生涯を紹介しています。
1903年に卒業し、直ちに同大学の講師、次いで1906年に助教授、1913年に教授となり、行政法を講じました。
1927年からは、退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになりました。
行政法における師匠は織田萬で、憲法における師匠は井上密です。
1921年以来二回法学部長に挙げられました。
厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。
弟子の大石義雄とともに、憲法学における京都学派を築きました。
1933年に滝川事件に抗議して辞職し、同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動しました。
1945年には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる佐々木憲法草案を作成しました。
その後、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対しました。
専門は憲法学・行政法で、学位は法学博士です。
貴族院勅選議員、京都大学名誉教授、立命館大学学長を歴任しました。
京都市名誉市民となり、文化功労者、文化勲章を受章しました。
伊藤孝夫さんは1962年兵庫県生まれ、1985年に京都大学法学部を卒業し、1987年に同大学院法学研究科修士課程を修了しました。
専門は日本法制史で、2001年に京都大学により論文博士を授与されました。
1989年に京都大学法学部助教授、1992年に同大学院法学研究科助教授、1999年に同大学院法学研究科教授となりました。
現在、京都大学 法学研究科 教授を務めています。
佐々木惣一は厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍しました。
1916年に政党政治への不信が強まっていた時代に、「立憲非立憲」の論文を発表しました。
門地や職業に依て限られた範囲の国民を上級国民と名付けて行われた上級国民の意思による政治は、立憲主義ではないとしました。
一般の国民がその意思を政治に反映させて初めて立憲主義が生まれると、立憲主義の価値を説きました。
1940年に、革新的な新体制運動にともなって結成された大政翼賛会には一貫して反対し、自由保守主義を擁護し続けました。
1933年の京大事件により7月に京都帝国大学を免官となり、その9月に17人の教員とともに立命館大学に招聘されました。
京大事件はいわゆる瀧川事件で、瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものでした。
教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い、免官となりました。
同年12月12日には立命館大学の法律学科部長に、1934年3月9日に学長に就任しました。
1935年には創立35周年記念事業にも取り組みましたが、1936年に1年の任期を残して学長を辞職しました。
当時の天皇機関説問題などを巡る国の動向と、社会の状況によるものといわれます。
そして、1937年からの日華事変の長期化を理由とした、新体制運動の議会否定の思想を批判しました。
近衛文麿は首相として日中戦争を全面化して日独伊三国同盟を結び、国内の戦争体制を整備しました。
ナチス・ドイツに範をとった一党独裁のファシズムは日本の政治的伝統とかけ離れ、帝国憲法の運用に適っておらず、非立憲的であると主張しました。
その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難しましたが、太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣、早期和平実現計画の一員に加わりました。
敗戦直後、マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示し、近衛が相談相手に佐々木を選びました。
佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていましたので、これに応じました。
権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後、ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行いました。
佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画でしたが、実現しませんでした。
内大臣府廃止により憲法改正作業は打切られ、近衛は要綱だけを佐々木は全文を天皇に報告しました。
二人はともに、天皇主権という帝国憲法の国体を維持して、内容を民主主義に改めることを意図しました。
佐々木はGHQの意向を取り入れることを嫌い、天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっています。
注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点です。
近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと、佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対しました。
一方で、皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張しました。
しかし新憲法の内容のデモクラシーには賛成で、新憲法が成立すると国民は新憲法を尊重してこれを守るよう説きました。
公法学者としての佐々本の軌跡は、明治憲法の長所と限界とをそのままに反映するものとなったといえるでしょう。
佐々木の生涯は、学問の自由を守るための闘いだったといっても過言ではありません。
本書は佐々木を扱うはじめての評伝として生涯の軌跡を追い、牽引した戦前期公法学の展開をドイツ公法学との関連の下にたどっています。
本書は京都大学名誉教授の松尾尊兌先生が書かれる予定でしたが、先生がお亡くなりになったため執筆担当を引き受けたといいます。
第1章 土地の名―鳥取・金沢・京都/第2章 ドイツにて―ハイデルベルク・ベルリン/第3章 立憲非立憲/第4章 重責を担って/第5章 激動の中へ/第6章 戦時下に時を刻む/第7章 新憲法との対話
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