高台院は1549年尾張国朝日村、現、愛知県清須市に尾張の人杉原定利の次女として生まれました。

 室町時代後期から江戸時代初期に生きた女性で、杉原(木下)家定の実妹です。

 ”高台院”(2024年2月 吉川弘文館刊 福田 千鶴著)を読みました。

 14歳で豊臣秀吉と結婚して正室となり北政所と称され、秀吉の死後は高台院となった女性の生涯を紹介しています。

 織田信秀、織田信長に仕え弓衆となり、木下秀吉の与力とされ浅野長勝の養女となりました。

 1561年8月に木下藤吉郎に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対されました。

 しかし、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため、無事に嫁ぎました。

 通説では14歳のときとされ、当時としては珍しい恋愛結婚でした。

 結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであったといいます。

 子供がありませんでしたので、加藤清正や福島正則などの親類縁者を養子や家臣として養育しました。

 1568年頃から数年間は美濃国岐阜に在住し、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取りました。

 1574年に近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかとともに転居しました。

 この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にありました。

 1582年の本能寺の変の際に明智方の阿閉氏が攻めてきましたので、大吉寺に避難しました。

 福田千鶴さんは1961年福岡県生まれ、福岡高等学校を経て1985年に九州大学文学部史学科を卒業しました。

 1993年に同大学院文学研究科博士課程を中退し国文学研究資料館助手となり、1997年に学位論文により九州大学博士(文学)となりました。

 2000年に旧・東京都立大学人文学部助教授、首都大学東京都市教養学部准教授となり、2008年に九州産業大学国際文化学部教授、2014年に九州大学基幹教育院教授となりました。

 2019年に第17回「徳川賞」を受賞しました。

 1585年に豊臣秀吉が関白となり、秀吉の第一位の妻として北政所と称されました。

 天下人の妻として、北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けました。

 また、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担いました。

 1588年5月に後陽成天皇が聚楽第に行幸し、5日後無事に還御しました。

 すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられました。

 従一位叙位記には豊臣吉子と記されていました。

 1592年に秀吉から所領を与えられ、平野荘、天王寺、喜連村、中川村など合計1万1石7斗でした。

 1593年からの文禄・慶長の役で、秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化のため交通整備を行いました。

 名護屋から大坂・京の交通に秀吉の朱印状、京都から名護屋の交通に豊臣秀次の朱印状です。

 そして、大坂から名護屋の交通に北政所の黒印状を必要とする体制が築かれました。

 1598年9月に秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたりました。

 武断派の七将が石田三成を襲撃した時に、徳川家康は北政所の仲裁を受けました。

 1599年9月に大坂城を退去し、奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住しました。

 関ヶ原の戦い前に、京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されました。

 このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後に准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件がありました。

 関ヶ原合戦後は京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社に参詣するなど秀吉の供養に専心しました。

 秀吉から与えられていた1万5,672石余は、合戦後に養老料として徳川家康から安堵されました。

 1603年に養母の死と秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に、落飾しました。

 朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称しました。

 1605年に実母と秀吉の冥福を祈るため、家康の後援のもと京都東山に高台寺を建立しました。

 門前に屋敷を構え、大坂の陣では幕府の意向で甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられました。

 そして、1615年に大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びました。

 一方、利房は高台院を足止めした功績により備中国足守藩主に復活しました。

 徳川家との関係は良好で、徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催の二条城内能興行が行われました。

 公家の一員としての活動も活発で、高台院からたびたび贈り物が御所に届けられました。

 1624年10月17日に高台院屋敷にて享年76(77、83の諸説あり)歳で死去しました。

 墓所は京都市東山区の高台寺、遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置されています。

 諱には諸説あり、一般的には「ねね」とされますが、「おね」と呼ばれることが多いです。

 木下家譜やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為」などと記され、「ねい」説もあります。

 しかし、近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記したものが確認されています。

 戸籍ができる前の女性の名前は、大名家に生まれた娘でも不明な場合が多いです。

 大名家の娘であれば、生まれてから死ぬまで「姫」と呼べば事が足りたからです。

 それゆえ、記録に名前が残されることが少なかったのです。

 女性の名前が不明の場合に、歴史研究では実家や婚家の氏名を用いる方法を採用します。

 高台院の場合は「杉原氏」としたものが多いですが、これは生家の氏名です。

 高台院の法号は死後の謐であることが多く、その人物を代表させる名とするには躊躇される場合もあります。

 しかし、高台院は朝廷から勅許を得て生前から用いられた号ですので、その点での問題はありません。

 とはいえ、秀吉が関白に就いたことで、その本妻の呼び名「北政所」の号で一般には知られています。

 ただし、北政所とは平安時代に三位以上の公卿の本妻の呼び名だったものです。

 時代が下ると、宣旨をもって特に摂政・関白の本妻に授けられる称号として用いられました。

 日本歴史上に北政所と称えられた女性は複数いたため、唯一固有の号ではありません。

 北政所といえば秀吉の本妻のことだけを指すと固定的に考えるのは、誤った歴史認識です。

 「北政所」として語り継がれた女性の生涯には、思いのほか事実誤認が多いです。

 高台院の行動と思われていた事象が、実は秀吉母のことだったり、浅井茶々のことであったします。

 そのため、問題提起の意味もあり、書名には北政所を採用しなかったということです。

 これは、「糟糠の妻」としての「北政所」像があまりにも大きく描かれがちだったためです。

 本書ではいったん「糟糠の妻」のイメージを取り除き、等身大の高台院を描いてみたいといいます。

第1 誕生から結婚まで(高台院の本名/誕生をめぐる三説/実家杉原氏とその家族/木下秀吉との婚姻と養家浅野氏)/第2 近江長浜時代(織田信長の教訓状/近江長浜での生活/本能寺の変/山崎城から大坂城へ)/第3 北政所の時代(関白豊臣秀吉の妻/聚楽城と大坂城/小田原の陣/豊臣家の後継者/秀次事件と秀吉の死/寺社の再興)/第4 高台院と豊臣家の存亡(京都新城への移徒/関ヶ原合戦/出家の道/豊臣秀頼との交流/大坂冬の陣・夏の陣)/第5 晩年とその死(豊国社の解体/高台院の経済力/木下家定と浅野長政の死/木下家の人々との交流/古き友との再会と別れ/高台院の最期)

 

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