新選組は幕末から維新にかけて特異な存在感を示し、さまざまな興味を抱かせる集団です。

 ”斎藤一 京都新選組四番隊組頭”(2022年3月 河出書房新社刊 伊東 成郎著)を読みました。

 新選組の四番隊組頭を長く務め、会津戦争と西南戦争に従軍し、藤田五郎として明治大正を生きた斎藤一の生涯を紹介しています。

 新選組の中枢を担った近藤勇と土方歳三は、武家ではなく多摩地方の農家の出身でした。

 ともに幼い頃から武士に憧れ、動乱の時代の中でその思いを実現させ時代の変革とともに散っていきました。

 斎藤 一は1844年に江戸で(一説には、播磨国ともいわれる)生まれ、父親が明石出身であったことから明石浪人、または播州明石浪人を名乗ったようです。

 父・右助は播磨国明石藩の足軽でしたが、江戸へ下り石高1,000石の旗本・則定鈴木家に仕えたとされ、後に御家人株を買って御家人になったといわれます。

 斎藤 一は幕末期に新撰組で副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、撃剣師範を務めました。

 一時期御陵衛士に入隊し、戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦いました。

 明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷軍と戦いました。

 伊東成郎さんは1957年東京生まれ、1979年に明治大学文学部史学地理学科を卒業し、1981年に東京写真専門学校を卒業しました。

 同年に全国石油業協同組合連合会広報部に就職しましたが、翌年伊東写真館祖父が明治末年に開業した同店で写真撮影業を自営し、現在に至ります。

 同時に、歴史関連の調査、執筆活動を展開してきました。

 2000年にNHK「その時歴史は動いた」の製作に協力し、2003年に東京都中央区江戸開府400年記念事業検討委員会委員に就任しました。

 斎藤一という名前は、京都に移ってから新選組全盛期にかけてのもので、最初の名前は山口一でした。

 1862年に江戸で刃傷沙汰を起こして京都に逃亡した際、斎藤一と名を変えました。

 1867年に山口二郎(次郎)と改名し、会津藩に属して戊辰戦争を戦った時期には一瀬伝八を名乗りました。

 斗南藩に移住する直前、妻の高木時尾の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名しました。

 1872年の壬申戸籍には藤田五郎として登載されています。

 19歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になり斬ってしまい、父親の友人である京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めました。

 1863年3月10日に、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成しました。

 同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなりました。

 新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢されました。

 後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番隊組長として登場し、撃剣師範も務めました。

 一般に斎藤一は、新選組三番隊長と呼ばれます。

 小説から漫画にいたるまで踏襲されているこの肩書きには、実は史実としての裏づけがありません。

 原典は西本願寺の寺侍だった西村兼文が1889年に編んだ新選組始末記です。

 後年、この組長編成は独り歩きし、京都土産の暖簾や湯呑にも登場するに至りました。

 しかし、行軍録と題する新選組の編成表は行軍形式で整えられており、近藤や土方のほかに当時在籍していた小隊ごとに整然と配列された全隊士名が確認できます。

 八小隊と番外の小荷駄隊という全九基による新選組の小隊編成があり、斎藤一は決して「新選組三番隊長」や「三番隊組長」ではなく、「新選組四番隊組頭」であるといいます。

 1864年6月5日の池田屋事件では土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられました。

 1867年3月に伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると斎藤も御陵衛士に入隊しましたが、のち新選組に復帰しました。

 同年12月7日に紀州藩の依頼を受けて同藩士・三浦休太郎を警護しましたが、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃されました。

 三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり宮川信吉と舟津釜太郎が死亡し、梅戸勝之進が斎藤をかばって敵の刃を抱き止め、重傷を負いました。

 斎藤は鎖帷子を着ており無事でしたが、三浦は顔面を負傷したものの命に別状はありませんでした。

 将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加しました。

 1868年1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦し、斎藤はいずれも最前線で戦いました。

 近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に戻った土方歳三らとともに国府台で大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助と合流の後、下妻へ向かいました。

 土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加しましたが足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着きました。

 斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加し、8月21日の母成峠の戦いにも参加しました。

 敗戦により若松城下に退却し、その後、土方らは庄内へ向かい、大鳥ら幕軍の部隊は仙台に転戦しました。

 斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けました。

 9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降しました。

 降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送りました。

 会津藩は降伏後改易され会津松平家は家名断絶となりましたが、1869年11月3日に再興を許されました。

 知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北半島を松平家側で選ぶこととされました。

 旧藩幹部は下北半島を選択し藩名は斗南藩と命名され、斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴きました。

 斎藤は斗南藩領の五戸に移住し、会津藩士としては大身に属する系譜の篠田やそと結婚しました。

 後年、1874年に元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚し、氏名を藤田五郎に改名しました。

 時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けました。

 同年7月に東京に移住し警視庁に採用されました。

 1877年2月に九州で西南戦争が起き、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争に参加しました。

 斬り込みの際に敵弾で負傷しましたが奮戦して、1879年10月に政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与されました。

 1881年に警視局が廃止されて一旦陸軍省御用掛となり、その後警視庁の再設置により11月に巡査部長となりました。

 1885年に警部補、1888年に麻布警察署詰外勤警部として勤務し、1892年12月に退職しました。

 退職後、東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務めました。

 なお、出自、経歴は不明な点も多いといいます。

1 新選組前夜/2 壬生狼疾駆/3 新選組四番隊組頭/4 孝明天皇御陵衛士/5 京都落日/6 転戦の果てに/7 斎藤一の明治


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