チベット仏教は、7世紀にインドから伝えられた密教的な要素が強い仏教と、土着の宗教であるボン教とが結びついて展開しました。


 ”慧海 雲と水との旅をするなり”(2020年1月 ミネルヴァ書房刊 高山 龍三著)を読みました。


 日本人として初めてチベット・ラサへ潜入、仏教の原典を入手し、チベットの文化、仏教の研究・紹介に努めた河口慧海の型破りで情熱的な生涯を紹介しています。


 師匠のラマを崇敬し、師弟関係を通じて教えが伝えられることから、ラマ教と呼ばれることもあります。


 8世紀半ば,インド系仏教が中心となってボン教と融合して成立しました。


 吐蕃の国家的宗教となりましたが,吐蕃末の廃仏で衰微しました。


 11世紀の再興後,13世紀にパスパがフビライ=ハンの保護を受けてモンゴルや華北にも普及させました。


 14世紀にツォンカパが出て戒律の厳格な黄帽派を創立して改革にあたり,これまでの紅帽派と区別しました。


 その二大弟子からダライ=ラマ,パンチェン=ラマが代々転生するとして,前者はラサに,後者はタシルンポに教権を立て,ともにチベットの政教を支配してきました。


 また,16世紀にアルタン=ハンがチベットを討つとチベット仏教を奉じ,モンゴルに移入されました。


 現在、ゲルク派、カギュ派、サキャ派、ニンマ派の四大宗派があります。


 ダライ・ラマはゲルク派の最高位で、同時にチベット仏教の最高位にあります。


 第2位にあたるのがパンチェン・ラマです。


 共に転生霊童の活仏として崇拝され、どちらか一方が死亡した場合、もう一方がその転生者を認定します。


 高山龍三さんは1929年大阪生まれ、大阪市立大学・同大学院博士課程中退、専攻は文化人類学・チベット学です。


 東京工業大学助手、東海大学助教授、大阪工業大学教授を経て、京都文教大学文化人類学科教授となりました。


 1958年以来ネパール、西および南アジア、ボルネオのフィールドワークを実施してきました。


 2004年に新たに発見された慧海の日記の研究を続け、新版の著作集に収録しました。


 2006年に日本国立民族学博物館がネパール写真データベースを公開しました。


 データベースに収められた写真には、1958年の西北ネパール学術探検隊に参加し現地で撮影した3、584点と、同隊がネパールで収集した標本資料の295点の合計3、879点があります。


 慧海の資料調査・研究公刊を生涯続け、講談社学術文庫版の慧海のチベット旅行記の校閲も担当し多数重版されました。


 河口慧海は1866年摂津国住吉郡堺山伏町、現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁生まれ、父親は桶樽を家業とする職人でした。


 幼名は定治郎、僧名は慧海仁広、ベット名はセーラブ・ギャムツォ、チベットでの通称はセライ・アムチーです。


 6歳から寺子屋清学院に通い、その後は明治時代初期に設置された泉州第二錦西小学校へ通学しました。


 12歳から家業を手伝いつつ、その傍らで14歳から夜学へ通学しました。


 その後、藩儒であった土屋弘の塾へ通学して漢籍を5年間学び、米国宣教師から英語などの指導を受けました。


 1886年に京都の同志社英学校に通学を始めましたが、学費困窮から退学しました。


 同年堺市に戻り、再び土屋と米国人宣教師のもとで学びました。


 1888年に宿院小学校の教員となりましたが、更に学問を修めるべく翌年に上京しました。


 井上円了が東京市に創設した哲学館、現、東洋大学の外生として苦学しました。


 1890年に黄檗宗の五百羅漢寺で得度し、同寺の住職となりました。


 1892年3月に哲学館の学科終了に伴い住職を辞し、同年4月から大阪妙徳寺に入り禅を学ぶ傍ら一切蔵経を読みました。


 その後、五百羅漢寺の住職を勤めるまでになりましたが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指しました。


 1897年6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドのカルカッタに到着しました。


 摩訶菩提会幹事の紹介により、ダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得ました。


 およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送りました。


 その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択しました。


 日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにしました。


 1899年1月に仏陀成道の地ブッダガヤに参りました。


 その際、摩訶菩提会の創設者のダンマパーラ居士より、銀製の塔、その捧呈書、貝多羅葉の経文一巻を、チベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託されました。


 同年2月にネパールの首府カトマンズに到着し、ブッダ・バジラ・ラマ師の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査しました。


 同年3月にカトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行きましたが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなりました。


 ここで知り合ったモンゴル人の博士、セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになりました。


 1899年5月より翌年3月頃まで、この村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり、登山の稽古をしたりして過ごしながら、新たな間道を模索しました。


 1900年3月に新たな間道を目指してツァーラン村を発ち、マルバ村へ向かいました。


 村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機しました。


 同年6月12日に、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発しました。


 同年7月4日に、ネパール領トルボ地方とチベット領との境にあるクン・ラ峠を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功しました。


 白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェと面会し、マナサルワ湖・聖地カイラス山などを巡礼しました。


 1901年3月にチベットの首府ラサに到達し、チベットで二番目の規模を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されました。


 それまで中国人と偽って行動していましたが、この時にはチベット人であると騙ったといいます。


 たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになりました。


 次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー、つまり、セラの医者という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになりました。


 そしてついに法王ダライ・ラマ13世に招喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されましたが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断りました。


 前大蔵大臣の妻を治療した縁で、夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになりました。


 この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェで、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことができました。


 1902年5月に、日本人だという素性が判明する恐れが強くなり、ラサ脱出を計画しました。


 親しくしていた薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、英領インドに向けてラサを脱出し、無事インドのダージリンまでたどり着きました。


 同年10月に、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞いたといいます。


 そこで救出のための方策として、チベットが一目置いているであろうネパールに赴きました。


 1903年3月に、慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに認めた上書を、ネパール国王であったチャンドラ・サムシャールを通じて、法王に送って貰うことに成功しました。


 同年4月24日に、英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に神戸港に帰着しました。


 和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国でした。


 慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことでした。


 その後、慧海は1913年から1915年までにも、2回目のチベット入境を果たしました。


 ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功しました。


 また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集しました。


 持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されています。


 著者はかつて西北ネパール学術探検隊の一員として、一か月も歩いてヒマラヤを横断し、とあるチベット人村に滞在し、民族学的調査をしたことから、慧海師とのつながりが始まったといいます。


 歩いた道は慧海師の歩いた道であり、滞在調査した村は、慧海師が旅行記の中でネパール最後に記した村でした。


 帰国後、勤務の都合で上京し、師に連れられて慧海の会、通称、慧海忌に出席し、遺族や弟子たちと知り合い、多田等観師、平山郁夫画伯、山田無文師、深田久弥氏、中根千枝先生らの話を聞いたそうです。


 慧海の会の自費出版、第二回チベット旅行記の編集、注記、地図づくりを手伝い、講談社学術文庫のチベット旅行記五冊本の校訂を行いました。


 のちに僧籍を返上して、在家仏教を提唱しました。


 また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献しました。


 晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去しました。


 チベット旅行記によって、多くの読者は探検談としての興味をもって評価しましたが、仏教の書として読んで欲しいと願ったといいます。


 日記の出現により、慧海師の旅は修行そのもの求道そのものだったことが分かります。


 この本では、旅行記によって話を進めず、日記によって判明した彼の行動、思考を追ってみたいといいます。


第1章 若き時代/第2章 チベットへの旅/第3章 再びチベットへ/第4章 研究・教育・求道/第5章 世界のカワグチとなった慧海/第6章 慧海の遺したもの/参考文献/慧海年譜


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