徳川斉昭は第7代藩主・徳川治紀の三男として生まれ、母は公家日野家一門の外山氏、名は虎三郎、敬三郎でした。
”徳川斉昭 ー 不確実な時代に生きて”(2019年6月 山川出版社刊 永井 博著)を読みました。
幕末の水戸藩主で徳川慶喜の父として知られ維新後の評価も毀誉褒貶が顕著な徳川斉昭の生涯を追いながら、新出史料も交えつつ全体像を描き新たな視点も加えて紹介しています。
斉昭は初めは父・治紀より偏諱を受けて紀教=としのり、藩主就任後は第11代将軍徳川家斉より偏諱を受けて斉昭と名乗りました。
幕末の重要人物でありながらこれまで評伝がなく、ドラマ、小説等では、頑迷固陋な攘夷主義者という一面的な取り上げ方がされてきました。
しかし、実は現実的には攘夷は不可能であると認めており、開国も是認していましたが、その交易和親の実現は年若い松平慶永に託したといいます。
永井 博氏は1958年生まれ、1983年に國學院大學大学院文学研究科日本史学専攻博士課程前期を修了しました。
1997年から茨城県立歴史館に勤務、管理部教育普及課主任研究員、史料部歴史資料室首席研究員、学芸部学芸第二室首席研究員、史料学芸部学芸課長・部長を歴任しました。
2007年から常磐大学非常勤講師(歴史学)を務め、2019年現在、常磐大学非常勤講師(博物館学)を務めています。
斉昭は江戸時代後期の親藩大名で、常陸水戸藩の第9代藩主、江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父です。
もはや老いた自分は世間から期待されている以上、一生、攘夷之巨魁を演じ続けるつもりである、と述べたことがあるそうです。
慶永は松平春嶽として知られ、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家です。
越前国福井藩16代藩主で、春嶽は号で、諱は慶永です。
田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男で松平斉善の養子、将軍・徳川家慶の従弟で、英邁な藩主で幕末四賢侯の一人と謳われいました。
慶永は慶喜の将軍擁立運動を繰り広げた一橋派の中心人物で、徳川一族として斉昭とも親しい間柄でした。
斉昭は1800年3月11日に水戸藩江戸小石川藩邸で生まれ、治紀の子たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学び、聡明さを示しました。
治紀には成長した男子が4人いて、長兄の斉脩は次代藩主であり、次兄の松平頼恕は1815年に高松藩松平家に養子に、弟・松平頼?は1807年に宍戸藩松平家に養子に、と早くに行く先が決まりました。
三男の斉昭は30歳まで部屋住みであり、斉脩の控えとして残されました。
生前の治紀から、他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない、と言われたといいます。
譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがあるからです。
1829年に第8代藩主・斉脩が継嗣を決めないまま病となりました。
大名昇進を画策する附家老の中山信守を中心とした門閥派より、第11代将軍・徳川家斉の第20子で斉脩正室・峰姫の弟である恒之丞を養子に迎える動きがありました。
学者や下士層は斉昭を推し、斉昭派40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなりました。
斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が家督を継ぎました。
1832年に有栖川宮織仁親王の娘・登美宮吉子と結婚し、藩政では藩校・弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めました。
こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い、藩政改革を実施しました。
斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれます。
全領検地、藩士の土着、藩校弘道館および郷校建設、江戸定府制の廃止などを行いました。
また、大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどしました。
さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していました。
蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言しています。
その影響力は幕府のみならず全国に及びました。
またこれにより、水戸、紀州、尾張の附家老5家の大名昇格運動は停滞します。
宗教の面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行いました。
また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた人別改など民衆管理の制度を神官の管理へと移行しました。
1844年に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられました。
その後、水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って専横を行いましたが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって、1846年に謹慎を解除され、1849年に藩政関与が許されました。
1853年6月、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わりましたが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張しました。
このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上しています。
また、江戸の石川島で洋式軍艦を建造し、幕府に献上しました。
1855年に軍制改革参与に任じられましたが、同年の安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが死去してしまうなどの不幸もありました。
1857年に阿部正弘が死去して堀田正睦が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立しました。
さらに第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、徳川慶福を擁して南紀派を形成する井伊直弼らに対し
て、実子である一橋慶喜を擁して一橋派を形成して直弼と争いました。
しかしこの政争で斉昭は敗れ、1858年に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福=家茂を第14代将軍としました。
このため、1858年6月に将軍継嗣問題と条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永と尾張藩主・徳川慶恕、一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問しました。
そのため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されました。
孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、1859年には、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上は政治生命を絶たれる形となりました。
そして、1860年8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で享年61歳で急逝しました。
幕末は未来が予測しづらい不確実な時代でした。
そのなかにあって斉昭は、前例のない改革に挑戦し続けました。
その最終目的な、欧米に対抗しうる強い国家を実現することであり、そのためのスローガンが尊王攘夷でした。
まず、わが国の歴史的背景に裏づけられた、天皇を中心とした政治体制を確認する尊王がありました。
ついで対外的な緊張感を高めることにより、天皇を中心とした国民の統合を強靭なものにして、改革を推進する体制をつくる攘夷がありました。
もともと別個の概念であった「尊王」と「攘夷」は、斉昭のもとで初めて一連のスローガンとなり、強力な藩、さらには国家づくりの指針となり、斉昭の行動理念となりました。
こうした政治的行動をひとまず置いて、徳川斉昭という人物全体を何をどう評価すべきでしょうか。
ペリー来航以後の、とくに幕政とのかかわりという側面については、すでに多くの著作のなかで触れられてきているにもかかわらず、その生涯を追った伝記はほとんどありません。
全体像へのアプローチが難しい状況です。
そうしたなかで、斉昭の全体像の一端だけでも広く一般に紹介したい、それが本書述作の目的です。
第1部 水戸藩主徳川斉昭(第1章 松平敬三郎紀教ー「潜龍時代」/第2章 藩政改革)/第2部 「副将軍」徳川斉昭(第1章 斉昭の処分と再登場/第2章 幕政参与と安政の大獄)/余話 「家庭人」としての斉昭
[http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]