徳川慶勝は1824年江戸四谷の高須藩邸生まれ、実父は美濃の高須藩主松平義建で、母は正室・規姫(徳川治紀の娘)で、徳川慶喜は母方の従弟にあたります。

 尾張藩14代・17代藩主で、尾張藩15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬と四兄弟です。

 ”写真家大名・徳川慶勝の幕末維新-尾張藩主の知られざる決断”(2010年10月 日本放送出版協会刊 NHKプラネット中部 編 徳川黎明会監修)を読みました。

 御三家筆頭でありながら倒幕を決断し新政府誕生への道を開いた、功労者の徳川慶勝によって撮影された貴重な写真を多用しながら、幕末を活写して激動の時代を再現しています。

 尾張藩では4代続いて将軍家周辺からの養子が続いたため、反対派が支藩の高須藩出身である慶勝の藩主継承を渇望していました。

 慶勝の擁立は12代・13代と藩士に渇望されましたが、12代藩主・斉荘、13代藩主・慶臧といずれも将軍家からの養子が尾張家を継ぐことになりました。

 1849年に慶臧が死去すると、慶勝の14代藩主就任が実現しました。

 編者はNHKプラネット中部で、執筆者は

 和泉宏一郎(NHK専任ディレクター・現所属NHKプラネット中部)、
 岩下哲典(徳川林政史研究所特任研究員・明海大学教授)、
 太田尚宏(徳川林政史研究所主任研究員)、
 白根孝胤(徳川林政史研究所研究員)、
 中島雄彦(徳川美術館学芸員)、
 並木昌史(徳川美術館学芸員)、
 原史彦 (徳川美術館主任学芸員)、
 深井雅海(徳川林政史研究所副所長)、
 藤田英昭(徳川林政史研究所非常勤研究員・明海大学非常勤講師)、
 吉川美穂(徳川美術館学芸部係長・学芸員)、
 龍渾彩(徳川美術館学芸員)

 所属肩書はいずれも出版当時のものです。

 2009年8月23日にNHK-BSで関連番組ハイビジョン特集が放映されました。

 徳川慶勝は、幼名は秀之助、元服後、高須松平家時代は松平義恕を名乗りました。

 尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕、のち慶勝と改名しました。

 1841年に従四位下に叙し、侍従に任官し中務大輔を兼任しました。

 1849年に掃部頭を兼任し、中務大輔の任替、侍従如元となりました。

 1851年から藩政改革に着手し、人事の刷新、財政整理、禄制改革などを行い成果をあげました。

 幕閣においては、老中・阿部正弘の死後に大老となりました。

 当時、幕政を指揮していた井伊直弼が、1858年に日米修好通商条約を調印したため、水戸徳川家の徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議しました。

 これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳が15代藩主となりました。

 1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、悉皆御宥許の身となりました。

 その年に上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられました。

 1863年に茂徳が隠居し、実子の元千代(義宜)が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握りました。

 京都では会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変が起こり、京から長州藩と尊攘派の公卿らが七卿落ちとして追放されました。

 1864年に池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変(蛤御門の変)を引き起こしました。

 しかし、これに失敗して長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次長州征討)を行うこととなりました。

 征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられましたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征しました。

 この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋しました。

 しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定されました。

 慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就きました。

 長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破りました。

 1867年11月9日に、土佐藩の勧めで15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われました。

 慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、1868年1月3日の小御所会議において、慶喜に辞官納地を催告することが決定され、慶勝が通告役となりました。

 1月27日に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎しました。

 慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取りましたが、尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、2月13日に尾張へ戻って佐幕派を弾圧しました。

 そして尾張から江戸までの間の譜代親藩を含む大名や寺社仏閣に至るまで使者を送って新政府側に付くよう説得し、500近くの誓約書を取り付けました。

 これにより、京都を出発した新政府軍は大きな抵抗に合うこともなく約1月ほどで江戸に到着しました。

 その後一橋家当主となっていた茂徳に手紙を送り、容保、定敬の助命嘆願にあたらせました。

 1870年に名古屋藩知事となりましたが、1871年に廃藩置県により名古屋藩知事を免じられました。

 慶勝には黎明期の写真家というもう一つの顔があり、当時最先端のテクノロジーだった写真を自ら研究し、1000点以上の作品を残しました。

 大名屋敷の生活ぶりや名古屋城内部の様子など、殿様でなければ撮ることができない、興味深い被写体も撮影しています。

 名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、江戸の尾張藩下屋敷などの写真は、歴史的史料価値の高い写真です。

 また、技法にも工夫を凝らし、四枚組で名古屋城を撮った写真は、日本人による最初のパノラマ写真と言われています。

 本書には多くの写真が掲載されており、それぞれについて詳しく説明されています。

第1部 政治家徳川慶勝-日本近代化、陰の功労者/第2部 殿様徳川慶勝-殿様らしい最後の殿様/特別対談・徳川慶勝の魅力-竹内誠×黒鉄ヒロシ/第3部 写真家徳川慶勝-江戸の原風景をとらえた記録写真家

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