渓斎英泉は1791年に、江戸市中の星ヶ岡に下級武士政兵衛茂晴の子として生まれました。

 “絵師の魂 渓斎英泉”(2019年1月 草思社刊 増田 晶文著)を読みました。

 文化文政時代に葛飾北斎に私淑し、美人画・春画で一世を風靡し、千数百点の作品を残した浮世絵師・渓斎英泉を題材にした書下ろし時代小説作品です。

 渓斎英泉の本姓は松本でしたが、父の政兵衛茂晴が池田姓に復して以後は池田を名乗り、本名は義信ですが、茂義といった時期もあります。

 字は混聲、俗称は善次郎、のちに里介と名乗りました。

 菊川英山の門人で、画号は渓斎、国春楼、北亭、北花亭、小泉、涇斎といい、天保の改革以後は戯作や随筆に専念し、戯作者としては可候を名乗りました。

 増田晶文さんは1960年大阪府東大阪市生まれ、清風高等学校、同志社大学法学部卒業、会社員生活を経て、1994年から文筆業に専念しています。

 1990年代から2000年初頭まで、スポーツ、お笑い、教育、日本酒、自動車など幅広いジャンルのノンフィクション作品を単行本で発表してきました。

 1998年にナンバー・スポーツノンフィクション新人賞、2000年に小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞しました。

 2010年より小説へ移行し、2012年には初の書き下ろし小説を上梓し、人間の果てなき渇望を通底テーマに、さまざまなモチーフの作品を発表しています。

 渓斎英泉は、12歳から狩野典信の弟子という狩野白桂斎に画技を学びましたが、15歳の元服を機に、16歳か17歳かで安房国北条藩の水野忠韶の江戸屋敷に仕官しました。

 侍奉公には不向きだったのか、17歳の時に上役と喧嘩沙汰となり、讒言によって職を追われました。

 20歳の時、父と継母が相次いで亡くなり、3人の妹を一人で養う身となって、狂言作者の道は挫折を余儀なくされました。

 この時、先の水野壱岐守家に仕える多くの血族からの支援もありましたが、善次郎はそれをよしとせず、流浪の上一時、狂言役者篠田金治、後の2世並木五瓶に就いて、千代田才市の名で作をなしました。

 また深谷宿にて菊川英二に寄寓、浮世絵師菊川英山の門人格として、本格的に絵筆を執ることとなりました。

 ここからが善次郎の才能の発露であり、浮世絵師渓斎英泉の始まりでした。

 師の英山は4歳年上でしかない兄弟子のような存在でしたが、可憐な美人画で人気の絵師でした。

 英泉は英山宅の居候となって門下で美人画を学びつつ、近在の葛飾北斎宅にも出入りし、私淑をもってその画法を学び取っていきました。

 著者は、浮世絵を前にしてのけぞったのは、渓斎英泉の美入画が初めてだったといいます。

 むっちりと妖艶、婀娜っぽいだけでなく、内面に蛇が棲んでいる女を描きつづけました。

 彼女たちの魅力は、うつくしい、かわいい、艶っぽいで収まりきらず、とても全体像をあらわせません。

 英泉が紡いだ錦のように豪奢な女は、菱川師宣から鈴木春信、鳥居清長、鳥文斎栄之とつづく美人画の系譜から大きくはみ出し、喜多川歌麿にもまけない強烈なオリジナリティーを醸しています。

 知名度では、歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重ら四天王という面々におよばないものの、十傑をあげるなら、英泉は指おって名をかぞえるに値する絵師でしょう。

 英泉の美人画は海をわたり、ジャポニスムに傾倒する画家に注目されました。

 とりわけ、フィンセント・ファン・ゴッホは、1886年刊行の”パリ・イリュストレ”誌に掲載された英泉の”雲龍内掛の花魁”にはげしく感応しました。

 また宋・明の唐画を好み、書を読み耽ることを趣味とする人でもありました。

 文筆家にして絵師である英泉は、数多くの艶本と春画を世に送り出しています。

 22歳の時、千代田淫乱の名で最初の艶本”絵本三世相”を発表しました。

 24歳の時ころには、それまで可憐に描いていた美人画のほうも、この時分から英山色を脱して独自の艶を放つようになりました。

 妖艶な美人画絵師としての英泉はこの分野で磨かれ、26歳の時には北斎から譲られた号、可候をもって、合巻”櫻曇春朧夜=はなぐもりはるのおぼろよ”を発表しました。

 挿絵とともに本文も自ら手掛け、以後、艶本は毎年のように作られさまざまな隠号をもって人気本を世に送り出しました。

 文政5年=1822年の”春野薄雪”は傑作と名高く、”閨中紀聞 枕文庫”は当時の性奥義の指南書でした。

 30歳ごろからは人情本や読本の挿絵も手掛け、曲亭馬琴の”南総里見八犬伝”の挿絵も請け負っています。

 文政12年3月の大火による類焼で家を失った上、縁者の保証倒れにも見舞われました。

 英泉は尾張町、浜松町、根津七軒町、根岸新田村、下谷池ノ端、日本橋坂本町2丁目の植木店に居住、根津では若竹屋忠助と称して遊女屋を経営した他、坂本町では白粉を販売していました。

 天保の改革の時勢を迎えたのちは、画業はもっぱら多くの門人に任せて、自らは描く事は減少し、一筆庵可候の号をもって合巻や滑稽本を主とする文筆業に専念しました。

 主な門人に、五勇亭英橋、静斎英一、泉蝶斎英春、春斎英笑、米花斎英之、英斎泉寿、貞斎泉晁、紫嶺斎泉橘、嶺斎泉里、一陽軒英得、山斎泉隣、磯野文斎、信斎英松、春斎英暁などがいます。

 著者は、類例のない、艶やかで凄味たっぷりの女を描いた絵師の英泉のやむにやまれぬ衝動、果てなき渇望をつきとめたいと躍起になったといいます。

 英泉は十数年もの苦節を経験し、メインストリームに躍りでてからも紆余曲折はつづきました。

 英泉の軌跡は、栄光と失意、再生の繰り返しにほかなりません。

 英泉の画業にもっとも影響を与えたのは、画狂老人出こと北斎でした。

 北斎は慈父という側面が強く、北斎もまた英泉をよく可愛がり、節目ごとに導いてくれています。

 英泉は、私淑こそすれ、浮世絵界の大派閥の北斎一門には加わらず、対抗する歌川一党にも背を向けました。

 とりわけ、同時代を生き、人気で先行した歌川国貞へのライバル心は強烈でした。

 トレンドになびく俗人、ビジネス第一の本屋への反発もなまなかではありません。

 そのくせ、世の動向や書肆の思惑に右往左往されられどおしでした。

 ですが、最後は知命の心境に達し、最盛期の美人画と後年の風景画でみせた、個性を貫き昇華させる強烈なプライド、これこそは英泉の真骨頂でしょう。

第一章 前夜/第二章 美人画/第三章 裏の絵師/第四章 世間/第五章 暗雲/第六章 災厄/第七章 青の時代/第八章 絵師の魂/終 章 富士越龍

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