五代友厚は1836年に薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷に、薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれました。

 江戸時代末期から明治時代中期にかけての薩摩藩士で、大阪経済界の重鎮の一人です。

 当時、まさに瓦解に及ばんとする萌しのあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。

 ”五大友厚 富国強兵は「地球上の道理」”(2018年12月 ミネルヴァ書房刊 田付 茉莉子著)を読みました。

 薩摩藩に生まれ幕末に渡欧し帰国後明治政府に出仕し、辞任後数々の事業を手がけ、商法会議所、商業講習所、株式取引所などを創設し大阪実業界の基盤を築いた五代友厚の功績を振り返っています。

 田付茉莉子さんは1944年生まれ、1974年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了、現在、一般財団法人日本経営史研究所会長を務めています。

 幕末の動乱期にあって、ほとんどの志士たちが攘夷思想を抱いていたなかで、ヨーロッパに眼を向けていた人物は数少ないです。

 一般によく知られているのは、ペリー艦隊に小舟を漕ぎ寄せて渡米を計画した吉田陰ですが、その渡航の試みは無計画・無謀な企てであって、当然のことながら失敗しました。

 これに対して五代は、薩摩藩という開明的な藩を動かし、藩の事業として留学生を率いて渡欧を実現しました。

 五代は時代を突き抜けたグローバルな視野の持ち主で、ヨーロッパ諸国が世界に活躍している時代を正しく認識し、日本もその一員とならなくては国の将来はないと喝破したうえでの綿密な渡航計画でした。

 大久保利通や西郷隆盛といった下級武士出身の志士たちと違って、五代は上級武士の出身でしたから、直接的に斉彬の影響を受けて育ちました。

 1851年に元服して才助と名乗り、1857年に郡方書役となり、長崎遊学を命ぜられ、長崎で勝海舟と出会い、イギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーと知己を得ました。

 グラバーと共に上海に渡航し、ヨーロッパ諸国の租界が軒を連ね、世界有数の国際都市へと発展しつつあった都市の活気に触れました。

 1862年に藩庁より舟奉行副役の辞令が下り、蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して上海へ赴き、上海で高杉晋作らに出会いました。

 1863年に薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送されました。

 1865年3月にグラバー商会が手配した蒸気船オースタライエン号で、薩摩の羽島沖から欧州に向けて旅立ちました。

 薩摩藩留学生を引率してのヨーロッパ渡航は、五代の見聞の幅を大きく広げました。

 5月にイギリスのサウサンプトン港に到着、即日、ロンドンに向かい、7月にベルギーに行き、9月にプロシアから、オランダを経由して、フランスへ行きました。

 1866年2月に薩摩の山川港に帰着し、直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられました。

 イギリスやフランスでの知見に基づいて、五代は世界の強国の拠って立つ経済的基盤を理解し、斉彬のめざした富国強兵を、きわめて現実的に追求していきました。

 帰国後の五代は、志士としての活躍もしましたが、蒸気船、開聞船長として、資金調達と武器・艦船の調達などの商業活動にほとんど専念していました。

 刀を切り結び立ち回ることはなく、自らの役割を限定的に自覚して遂行したのです。

 その意味で五代は、同時代のいわゆる志士とは明確に一線を画していました。

 1867年1月に小松清廉、グラバーらとともに、長崎の小菅において、小菅修船場の建設に着手しました。

 5月に幕府が崩壊すると、御納戸奉公格という商事面を担いました。

 1868年に明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられました。

 2月に外国事務局判事に任じられ、初めて大阪に来ました。

 5月に外国権判事、大阪府権判事に任命され、初代大阪税関長に就任しました。

 9月に大阪府判事に任ぜられ、大阪府政を担当しました。

 政府に大阪造幣局の設置を進言し、グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を6万両で購入する契約を結びました。

 1869年5月に会計官権判事として横浜に転勤を命じられましたが、2か月で退官し下野しました。

 以後、金銀分析所、大阪通商会社、為替会社の設立に尽力し、鉱山経営として天和鉱山を手掛けました。

 また、造幣寮(現・大阪造幣局)、弘成館(全国の鉱山の管理事務所)、朝陽館(染料の藍の製造工場)、堂島米商会所の設立を行いました。

 1878年8月に大阪株式取引所(現・大阪取引所)、9月に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任しました。

 ほかに、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪青銅会社(住友金属工業)、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋会社、大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)を設立しました。

 五代友厚の事績を評価するときに、東の渋沢、西の五代と並び称されることが多いです。

 商法会議所や商業講習所を設立し、実業界の組織化に大きな貢献をしたという点では、東京の渋沢栄一に匹敵する役割を、西の大阪で果たしたからです。

 一方で、五代は政商として岩崎弥太郎と並び称されることも多いです。

 大蔵卿大隈重信と結んで三菱財閥を築き上げた岩崎に対して、内務卿大久保利通と五代の関係が比定されているのです。

 五代が政商とされるのは、北海道開拓使官有物の払い下げ事件によってであり、日本史の教科書ではこの一件だけ取り上げる本が多いです。

 しかし、事業家としての資質は、渋沢や岩崎と五代とのあいだには大きな違いがありました。

 渋沢は、自ら事業を起こすよりは、財界の組織者として能力を発揮しました。

 一方の岩崎は、政府の保護を利用して事業で成功し、のちに財閥を築きました。

 渋沢にとっても岩崎にとっても、事業意欲と資本蓄積意欲は表裏一体でした。

 五代もまた、自ら事業を起こして経営する実業家でした。

 そして、数多くの大事業の創業に関わった点では、渋沢や岩崎と共通するものがあります。

 しかし五代の事業意欲は、蓄財を最終的な目的とはしておらず、殖産興業と富国の実現を理念としていました。

 在来産業に代わって近代工業を根づかせ、それによって国際収支の悪化を防ぎ、植民地化の危機を回避しようとしました。

 その事跡をみるならば、五代は単に大阪の恩人にはとどまらず、近代産業の父として渋沢に先んじる存在でした。

 日本の近代を築く志にこだわった数少ない事業家であり、さらに大久保をバックアップする偉大な論客でもありました。

序 章 幕末薩摩藩と五代友厚/第一章 西欧近代に学ぶ/長崎遊学と上海渡航/薩英戦争から薩摩藩英国留学生の派遣へ/第二章 日本の近代化に向けて/ヨーロッパの視察/十八箇条の建言/幕末における志士活動/第三章 明治政府に出仕/在官時代の活躍/造幣寮の設立/辞官と帰郷/第四章 実業界でのスタート/金銀分析所の事業/活版印刷の普及と出版事業/第五章 鉱山業の展開/鉱山業と弘成館/主な鉱山の経営/弘成館の業績/第六章 製藍業の近代化と失敗/製藍業と朝陽館/経営難から破綻へ/第七章 その他事業への出資/大阪製銅会社/貿易事業への関与/その他の事業投資/第八章 商法会議所と財界活動/明治初年の政界活動/大阪商法会議所の設立/商業講習所と商品取引所/財政政策の建議/終 章 五代友厚の生涯、果たした役割/五代をめぐる人びと/五代友厚の逝去/五代の顕彰と事績/参考文献/おわりに/五代友厚略年譜/人名・事項索引

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