チェスター・ビーティー・ライブラリー(CBL)は、アイルランド共和国ダブリンの図書館、美術館、博物館で、1954年に開館しました。

 鉱山業界の有力者だったアルフレッド・チェスター・ビーティー卿のコレクション、特にイスラム世界、インド、日本、中国の美術品を多く収蔵しています。

 “ダブリンで日本美術のお世話を-チェスター・ビーティー・ライブラリーと私の半世紀”(2014年8月 平凡社刊 潮田 淑子著)を読みました。

 ダブリンの小さな美術館を手伝う日・愛、二つの国をつないだ日本人主婦の、半世紀の自伝的エッセイです。

 現在の図書館はビーティーの生誕125周年記念だったダブリン城 の敷地に、2000年2月7日に開館したものであり、2002年にヨーロッパの今年の博物館に選ばれました。

 潮田淑子さんは1931年水戸市生まれ、東京女子大学日本文学科卒業、1960年よりアイルランド、ダブリンでの生活を始めました。

 1970年よりチェスター・ビーティー・ライブラリーで学芸員の仕事に関わり、1996年に退職(1980年まではボランティア、以後正規職員)しました。

 2006年に外務大臣賞受賞、2007年に旭日双光章を受章しました。

 春まだ浅いアイルランドの地に降り立ってから、50年以上になります。

 ダブリンにまだ日本大使館もなく、心細い思いをしながらも夢中で毎日を過ごしたそうです。

 著者は日々、簡単な日誌を書いていました。

 それらに少しずつ手を加え自分史のようなものを書いてみようと思っていながらも、雑務に追われるまま机の引き出しにしまわれていました。

 そんなある日、上梓を勧めてくれた方が二人いました。

 一人は夫の大学時代からの親友で、ご夫妻でアイルランドを度々訪れていました。

 もう一人は2005年9月に着任され、2007年の日本とアイルランド外交樹立50周記念行事を成功させた日本大使です。

 大使は着任数日後ご夫妻で自宅にお出でになり、それからの2年3か月の大使としての活躍しながら、ご親切なお心遣いをしていただきました。

 その一つが、記念行事の一つとして”聞き語り日愛半世紀”を大使館のホームページに掲載することでした。

 1960年3月14日に、生まれて初めての飛行機で息子と一緒に旅をしました。

 どんよりと曇ったロンドン空港に降り立ったのは午後2時過ぎ、肌寒い3月中旬の昼下がりでした。

 空港には、東京大学からICI=Imperial Chemical Industriesフェローとしてダブリン大学に招かれて、半年前から勤務している夫が出迎えてくれていました。

 夫は息子の成長ぶりに驚き、息子は泣きそうな顔で抱かれ、著者は安堵して目には涙が出たそうです。

 そして、外務省からの研修生でオックスフォード大学に留学中の友人の車で、ロンドン市中のホテルに到着しました。

 ホテルの窓から見えるロンドンは、たくさんの煙突か並び立ち、暖炉からの黒い煙がもくもく立ち上っていました。

 夫の案内で2日間のロンドン見物を行った後、アイルランド行きの飛行機に乗りました。

 やがて英国航空の小さな飛行機で、一路ダブリンヘ飛びました。

 半年ぶりに親子揃っての新しい生活が始まる国アイルランドの地を、感慨深く踏みしめました。

 主人の大学での同僚が車で迎えてくれ、夕暮れの街を一路新居へ向かいました。

 この家からダブリンの生活が始まり、そしてチェスター・ビーティー・ライブラリーと出会うことになりました。

 日本大使館がなかったころは、アイルランドを訪れる日本人はあまり多くはありませんでしたが、それでも次第に増えてきました。

 ダブリンの小さな日本人社会は、大きな家族のように助け合って過ごしていました。

 親切すぎるアイルランドの人々の温かな心遣いに支えられて、みな異国にいることなどを忘れて快適な日々を送りました。

 大使館との本格的なかかわりの始まりは、愛日文化協会の立ち上げでした。

 1968年当時、在留邦人はまだ数が少なかったため、アイルランド人で日本の文化や芸術に関心をもってくれていた人たちと数十人で結成して、いろいろな活動を始めることとなりました。

 ここに夫婦とも発起人の仲間に入れられて、夫は運営委員に任命されました。

 この協会は、後にできた愛日経済協会と合併して、現在も愛日協会として活動を続けています。

 1970年に、文化協会の最初の活動の一つとして、日本語講座が始められ、その講師を頼まれました。

 週に一回、二時間の授業でした。

 受講生はさまざまでしたが、若い学生は少なく、むしろ知識階級の成人が多かったです。

 講座はこれだけでおしまいとはならす、続いて、アイルランド外務省から、若い外交官に日本語を教えることを依頼されました。

 教えはじめると、決まった時間に公務で出席できない生徒が出て、そのために自宅で特別授業をすることになりました。

 教えた外交官のなかの4人は、その後次々と日本勤務を命じられました。

 本来の文化協会の日本語講座では、受講生が増えて助手が必要になったとき、日本からの留学生の手を借りることがしばしばありました。

 ある日、日本大使館から電話があり、日本語を早急に覚えたいという英国人の女性がいるので、一度連絡して会ってくれませんかと言います。

 その女性は、1968年から、ダブリンで、チェスター・ビーティー・ライブラリーの学芸員第二号として、日本関係の収蔵品のカタログ作成にあたるために雇われたのでした。

 しかし、日本語を学ぶのは今回が初めてで、一日も早く学習を始めたいとのことでした。

 しかも、日本語の学習といっしょにカタログの作成も同時に始められるようにしてほしいと、不可能に近い要望を口にしました。

 そこで、いっしょにカタログ作りを始めて、時間のゆるすかぎりいっしょに仕事を進め、彼女には、愛日協会主催の授業にも出てもらうことにしました。

 こうして、チェスター・ビーティー・ライブラリーでのボランティアの仕事が始まりました。

 思えば、日本大使館からの一本の電話が生活プランを大きく変えてしまったのでした。

 この年の1月19日に、アルフレッド・チェスター・ビーティー卿が、モンテカルロのプリンセスーグレイス病院で亡くなりました。

 若き実業家だったアメリカ時代にその財を築き、93歳に近い長寿を全うしました。

 1月29日に、アイルランド史上初めての外国人の国葬が、ダブリン市のパトリック大聖堂で営まれました。

 チェスター・ビーティー卿の遺言により、生涯をかけて収集した文化財のうち、西洋絵画は国立美術館に、東洋の武器・武具類は軍の関係の軍事博物館に寄贈されました。

 東洋の武器・武具には、日本刀をはじめ、日本製の火縄銃、甲冑なども含まれています。

 そして、東洋美術関係の所蔵品はすべて、チェスター・ビーティ・ライブラリーに寄贈されることとされていました。

 政府は、寄贈された偉大な文化遺産の展示館の建設の準備や、二人の学芸員の雇用の準備を始めました。

 この年の9月には、チェスター・ビーティー卿の邸宅の近く、小さな図書館とギャラリーの開館にこぎつけたのでした。

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