緒方洪庵は備中に生まれ、はじめ大坂、のちに江戸で蘭学を学びました。
武士の子でしたが、虚弱体質のため医師を目指しました。
天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれています。
“緒方洪庵”(2016年2月 吉川弘文館刊 梅渓 昇著)を読みました。
近代日本の担い手を育てた蘭学者・緒方洪庵について、蘭医学、適塾、門下生などを紹介しています。
1838年に大坂で蘭学塾、適塾あるいは適々塾を開いて、多くの門人を育てました。
637人の中には、福沢諭吉、佐野常氏、橋本左内、大村益次郎らの名前も見えます。
梅渓 昇さんは1921年兵庫県に生まれ、1943年に京都帝国大学文学部国史学科を卒業し、1962年に文学博士(大阪大学)となり、1966年に大阪大学文学部教授を務めました。
1984年に大阪大学を退官し、同名誉教授となり、佛教大学教授を務め、1995年に佛教大学を退任しました。
専門は日本近代史・軍事史です。
緒方洪庵は1810年に豊後国の豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族の、備中国足守藩士・佐伯惟因の三男として生まれました。
諱は惟章=これあきまたは章=あきら、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎・華陰と称しました。
1825年に、大坂蔵屋敷留守居役となった父と共に大坂に出ました。
1826年に中天游の私塾・思々斎塾に入門し、緒方三平と名乗り、以後は緒方を名字としました。
4年間、蘭学、特に医学を学びました。
洪庵が中天游を最初の師と選んだのは、身体の構造、疾病の性質についての西洋医学の高度な知識への賛嘆からでした。
訳書によって西洋医学を勉強しましたが、病は生機の変化であり、変化を知るには常態を知らねばならず、常態を知るには内景を明らかにしなければならないという教えがありました。
また、西洋の医制は最も厳しく、考拠が明白で試験が確実でなければ、人に施すことができませんでした。
洪庵はこれらに強い衝撃をうけ、終始これを拳々服膚し、ここに後年の洪庵の西洋医学者としての大成の出発点がありました。
さらに、中天游が医学よりも理学に傾いていたことも、洪庵の学問研究に若年から深く影響を与えました。
物理学や光学など自然科学の広い教養を授けられたことで、洪庵は西洋の自然科学の発展に驚き、たんに医学のみならず、広く科学全体を西洋レベルに近づけようと志向しました。
1831年に江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学びました。
1836年に長崎へ遊学し、オランダ人医師ニーマンのもとで医学を学びました。
この頃から洪庵と号しました。
1838年に大坂に帰り、瓦町で医業を開業しました。
同時に、蘭学塾・適々斎塾(適塾)を開きました。
1845年に過書町の商家を購入し適塾を移転しました。
洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え瓦町の塾では手狭となったためでした。
1849年に京に赴き、佐賀藩が輸入した種痘を得て、古手町に除痘館を開き、牛痘種痘法による切痘を始めました。
1850年に郷里の足守藩より要請があり、足守除痘館を開き切痘を施しました。
1858年に洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認し、牛痘種痘を免許制としました。
大阪書籍の昭和64年(平成元年)度用の『小学国語』5年下に、「洪庵のたいまつ」と題した司馬遼太郎さんの文章が載せられました。
「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。ここでは、特に美しい生涯を送った人について語りたい。緒方洪庵のことである」
に始まり、洪庵の生涯を追いながら、
「洪庵は、自分の恩師たちから引きついだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。かれの偉大さは、自分の火を弟子たちの一人一人に移し続けたことである。弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。やがてはその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。後世のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない」
と結ばれているということです。
18世紀末から19世紀の半ばにかけての日本の幕末期には、徳川体制が各方面で行き詰まってきていました。
そこへ欧米先進諸国から強い外圧が加えられてきたのに対応して、国内に日本の近代化の動きが生じ、やがて明治維新の変革に至りました。
この幕末期の日本近代化の途上には、幾人かの顕著な先駆者の活動がありましたが、緒方洪庵もそのひとりでした。
洪庵は人びとの病苦を救済することを志し、これをみずからの使命として生涯を貫きました。
洪庵の人生は、1863年に終わる54年の間でしたが、当時は政治・経済・思想・文化・生活など、あらゆる面において身分制による規制と束縛の時代でした。
その時代を強く生き抜いて、かつまた時代に先駆けて、蘭医学者として、当時西洋の最新医学の受容・研究に努めました。
同時に、医師として種痘の普及、コレラの治療法に画期的な業績をあげました。
とくに、洪庵の大坂を中心とした除痘事業の組織的拡大への活動に、大坂町人の絶大な援助・協力を招来した意義は大きいです。
また、洪庵は適塾を主宰して、教育者として、多方面にわたる英才の育成に努めました。
洪庵は西欧諸国中におけるオランダの衰退傾向や蘭学の限界を知り、広く英学、その他の広範囲の西洋学者を、国のために急速に育成しなければという決意も持っていました。
文久・元治・慶応と幕末の政治的混乱期をへて、洪庵没後5年にして明治維新を迎えると、幕末から徐々に胎動していた日本の近代化が本格化しました。
こうした思想を持った洪庵の下で育った多数の適塾出身者が、多方面で活躍していきました。
第1幼少時代(出生と家系/家族と縁戚/幼少のころ/医学を志す/「出郷の書」)/第2大坂と江戸での修業時代(大坂の中天游塾/江戸での修業時代)/第3長崎での修業時代(長崎での研究生活/洪庵と交際した人びと/修業時代の研究業績)/第4大坂における開業・開塾(開業当時の大坂の社会状況/洪庵、八重と結婚/瓦町に居住/過書町塾に移る/適塾の展開/洪庵・八重の暮らしぶりと子供たち)/第5蘭医学書の翻訳と洪庵(洪庵「適適斎」と号す/洪庵の学問的業積)/第6大坂除痘館の開業とジェンナー牛痘法の普及(ジェンナー牛痘法の輸入//大坂除痘館の開業/一開業医としての洪庵―回勤と治療/洪庵の医学観)/第7晩年の奥医師・西洋医学所頭取時代(母の米寿の祝いと中国・四国旅行/江戸への出仕/奥医師になる/麻疹の流行と将軍家茂の罹患/西洋医学所頭取の兼帯/晩年の江戸暮らし)/第8洪庵の最期(江戸城西丸炎上と急死/妻八重の後半生)おわりに-緖方洪庵の人間像/緒方氏系図/略年譜
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