朝倉氏は但馬国朝倉庄を名字の地とする武士で、南北朝時代に越前守護斯波氏に従って但馬から越前に入りました。
鎌倉時代の初期、朝倉氏と朝倉庄の西隣の八木庄を名字とする八木氏は、鎌倉幕府の御家人に列し、但馬国に大きな勢力を持ちました。
両氏は同族で、但馬の名族日下部氏の一族で、八木氏は鎌倉時代を通じて八木庄の地頭として発展しました。
朝倉庄は後に鎌倉幕府中枢の御家人長井氏が地頭となり、朝倉氏はそれに従属していたと言われています。
”朝倉氏と戦国一乗谷”(2017年2月 吉川弘文館刊 松原 信之著)を読みました。
一乗谷を拠点に分国法を制定し、和歌・連歌・古典にも精通した有力な戦国大名の越前朝倉氏を紹介しています。
越前朝倉氏は、但馬の朝倉谷に生まれ、初めて越前へ入国した朝倉広景を祖とし、以後朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家です。
日下部を姓とし、氏神として赤淵大明神を崇敬し、三つ盛り木瓜を家紋としました。
松原信之さんは1933年福井市生まれ、1957年福井大学教育学部卒業、福井県立高志高校教諭、丸岡高校教諭、福井県史編纂室課長補佐、福井県立南養護学校長を務めました。
その後、丸岡図書館長を経て現在、坂井市立丸岡図書館小葉田文庫名誉館長と務めています。
戦国大名とその領国制の成立は、日本史上で最も興趣深く魅力多い問題の一つです。
多くの地方ではこの時期を迎えて、具体的にしかもかなり詳細に歴史展開の実相が調査もでき把握も可能となっています。
朝倉氏の先祖については三説がありましす。
景行天皇説、孝徳天皇説、開化天皇説です。
景行天皇の苗裔、日本将軍の後胤とする説は、賀越闘諍記や越州軍記などの記述するところです。
孝徳天皇-表米親王を祖とする説は、朝倉始末記、朝倉(日下部)系図などで、現在最も一般的な説となっています。
しかし、この説に対して、表米親王とは用明天皇の第三皇子来目皇子のことであり、これを見誤まって表米親王としたもので、来目皇子には新羅征討の史伝もあるといいます。
そして開化天皇説は、朝倉氏の祖先こそ開化天皇の皇子、彦坐命=ひといますのみことだとします。
いずれにしても、朝倉氏の祖先は、但馬国に永住して、代々朝倉郡や養父郡の大領や少領・貫首などを勤めた豪族でした。
平安時代末期に日下部宗高が但馬国養父郡朝倉に住し、はじめて朝倉氏を称したとされています。
その後、朝倉氏は朝倉城を築き、代々この城に拠りました。
朝倉氏の先祖は日下部氏嫡流を称する但馬の古代武士団であり、当時は越前の豪族でした。
越前朝倉氏の初代当主は朝倉広景で、南北朝時代を経て越前守護・斯波氏の重臣となりました。
室町幕府管領は、室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職で、将軍を補佐して幕政を統轄しました。
管領は執事から転換した制度であり、1362年にわずか13歳の斯波義将が執事に任じられ、父の斯波高経が後見しました。
執事は、足利尊氏が室町幕府を開いたときの中央政治の要職でした。
斯波氏は足利一門ではあるものの、本家からは独立した鎌倉幕府の御家人の家格を誇っていました。
形式上は足利本家と同格だったため、執事に就くのをよしとせず、再三の要請に仕方なく応じた結果です。
執事から管領への制度の転換はこの頃のことです。
7代目朝倉孝景の時代に応仁文明の乱を契機に、一乗谷を根拠に守護としての地歩を踏み出しました。
斯波氏の内訌に加え、足利将軍家や畠山氏の家督相続問題から、1467年に応仁の乱が勃発すると、孝景は主家の斯波義廉と協力して西軍として活躍しました。
御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど主要合戦に参戦し、伏見稲荷に籠もって西軍を苦しめた足軽大将・骨皮道賢を討ち取りました。
以後、朝倉氏景・朝倉貞景・10代目朝倉孝景と相続し、甲斐・二宮氏等の対抗勢力を漸次に駆逐しました。
そして、一向一揆の脅威を排除して、戦国大名として越前一国の支配を成就させました。
越前は近江・若狭を隔てて京に接続し、北陸へ通ずる京の関門に当たり、京を中心とする幕政や将軍の動向も鋭敏に連動します。
近江の京極・浅井氏、また多くはこれらを通して、美濃の土岐・斎藤氏、さらに若狭の武田氏等の動きも、朝倉氏に対して密接な関係がありました。
朝倉氏領国制の進展を見ますと、人材登用制作や一乗谷への集住政策など、新しい方向として史家の注目するものも少なくありません。
一乗谷は一乗谷川のつくる南北に狭長な谷で、朝倉氏が1573年織田信長によって滅ぼされるまで1世紀有余、越前支配の本拠地となりました。
朝倉氏による領国統治は比較的安定しており、京都での戦乱を逃れて公家や文化人が多く訪れはなやかな文化が花開きました。
日本のポンペイとも言われ、福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所が発足し調査や発掘・復原が進められています。
従来、一乗谷を朝倉氏の本拠としたのは7代目朝倉孝景であると言われていましたが、朝倉始末記という流布本にのみ記載されているもので、他に根拠はありません。
親元日記などの史料により、かなり以前から朝倉氏が一乗谷に根拠を持っていたことが判明しています。
特に文化においては、宗淳孝景時代を頂点に、公家・僧侶・芸能人等の文化知識人の下向滞留も多かったようです。
将軍権威の失墜とそれを取り巻く勢力の隆替がはなはだしく、尾張より起こった織田信長が入洛して天下統一の序幕が切って落されました。
信長は、もと斯波氏の重臣層としてほぼ朝倉氏と桔抗した家格だった織田氏の支流の出身です。
越前を地盤とする朝倉氏と尾張を根拠とした信長は、戦国大名としていくつかの通有した条件を具えていました。
足利義昭は信長に先んじて義景を頼みました。
そして、義景は信長との角逐に敗亡し去りました。
著者は、年来朝倉氏の研究を続けて多くの成果をあげています。
本書は、これらの研究をふまえて、朝倉氏の歴史を平易に述べたものといえるでしょう。
Ⅰ 斯波氏家臣時代の朝倉氏(但馬国時代の朝倉氏/朝倉広景・同高景/朝倉氏景・同貞景/朝倉教景・同家景/黒丸館と朝倉氏/足羽北庄と朝倉氏/一乗城の築城/越前国守護、斯波氏)/Ⅱ 戦国大名朝倉氏(朝倉孝景時代/朝倉氏景時代/朝倉貞景時代/朝倉孝景時代/朝倉義景時代/朝倉氏一族)/
Ⅲ 朝倉氏の領国経営(一乗谷奉行/府中奉行/敦賀郡司と大野郡司/朝倉氏の兵力/朝倉孝景条々/朝倉宗滴話記)/
Ⅳ 朝倉文化(文化人の越前下向/連歌と和歌/兵学・儒学・医学/絵画・猿楽/禅宗と朝倉氏)/
Ⅴ 戦国村一乗谷(史蹟公園戦国村/一乗城跡/朝倉義景館跡/城戸内の居館跡と遺跡/城戸外の居館跡と遺跡/一乗谷の石仏)/朝倉氏年表/朝倉氏略系図/著者の朝倉関係著作および小論
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