上杉憲顕=のりあきは南北朝時代の武将で、建武政権崩壊後、足利尊氏・直義に従って各地を転戦しました。
”上杉憲顕-中世武士選書13”(2012年11月 戎光祥出版刊 久保田 順一著)を読みました。
足利直義の忠臣として南北朝の動乱を生き抜き、足利基氏の近臣として初期鎌倉府を牽引して、関東管領上杉氏の礎を築いた名将・上杉憲顕の生涯を紹介しています。
1336年に上野国守護となり、暦応年間以後、高師冬とともに鎌倉府の足利義詮、基氏を補佐し、越後国守護も兼ねました。
観応の擾乱で直義方として尊氏方の高師冬を鎌倉から追い、甲斐に滅ぼしました。
その後、直義は尊氏に殺害され、憲顕も両国守護職を没収されました。
1362年に基氏によって再び両国守護となり、翌年に関東管領に任じられました。
久保田順一さんは1947年前橋市生まれ、1970年東北大学文学部史学科国史専攻卒業、群馬県立高校教諭を務めました。
退職後、現在、群馬県地域文化研究協議会副会長、榛名町誌編纂委員会専門委員を歴任しました。
これまで上野の中世在地社会の研究を行ってきましたが、その中で上杉氏について触れることはしばしばあったものの、まとまった形で論じることはなかったそうです。
様々な史料に当たって検討する中で、いくつかの新たな発見や再確認もあり、それらを論述しながら改めて南北朝の内乱を考えるという有意義な時を過ごせたといいます。
上杉氏は勧修寺流藤原氏の一族で、上杉重房が宗尊親王に供奉して関東に下り、有力御家人足利氏と結びつき、その家政機関の一員となりました。
一族の女性が足利氏当主の家時・高氏の母となったことなどから頭角を現しました。
重房の孫の憲房は尊氏に謀反を勧め、鎌倉幕府滅亡に功をあげました。
憲顕は1306年に憲房の子として誕生し、鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政において、関東では足利尊氏の弟・直義が、後醍醐天皇の皇子・成良親王を報じて鎌倉将軍府を成立させました。
1334年1月に成良の護衛として関東廂番が置かれ、六番39名のうち二番番衆の一人として名前が見られます。
1335年に尊氏が後醍醐天皇に叛くと、直義の部隊に属しました。
1336年1月に憲房は尊氏を京都から西へ逃がすため、京都四条河原で南朝方の北畠顕家・新田義貞と戦って戦死しました。
弟・憲藤も1338年に摂津国で顕家と戦って戦死したため、憲顕が父の跡を継ぐところとなりました。
同年に尊氏の命により、戦死した斯波家長の後任として、足利義詮が首長の鎌倉府の執事に任じられました。
しかし、その年のうちに突如高師冬への交替を命じられて上洛、2年後に復帰したものの、師冬と2人制を取る事になりました。
同僚である師冬が常陸国の南朝勢と戦ったのに対し、1341年に守護国となった越後国には、憲顕配下で守護代の長尾景忠が入国し、その平定に尽力しました。
1349年観応の擾乱が起きると、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から京都に呼ばれ、義詮に代わって足利基氏が鎌倉公方となり、京都から鎌倉に下向しました。
憲顕は師冬と共に基氏を補佐しましたが、直義方の上杉重能が高師直の配下に暗殺されると、直義方の憲顕は師冬と拮抗するところとなり、子・能憲と共に尊氏に敵対しました。
1351年に鎌倉を出て上野に入り、常陸で挙兵した能憲と呼応して鎌倉を脅かし、師冬を鎌倉から追い落として基氏を奪取しました。
次いで甲斐国に落ちた師冬を諏訪氏に攻めさせ、自害に追い込みました。
さらに直義を鎌倉に招こうとしたため尊氏の怒りを買い、上野・越後守護職を剥奪されました。
1352年に直義が死去して観応の擾乱は終結しましたが、国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は信濃国に追放されました。
しかし、尊氏が没し2代将軍となった義詮と鎌倉公方となった基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐した憲顕を、密かに越後守護に再任しました。
1362年に関東管領・畠山国清を罷免し、これに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐し、翌年、憲顕を国清の後釜として鎌倉に召還しようとしました。
この動きを知った上野・越後守護代で宇都宮氏綱の重臣・芳賀禅可は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとしましたが、武蔵苦林野で基氏の軍勢に敗退しました。
これに口実を得た基氏軍は討伐軍を宇都宮城に差し向けましたが、途中の小山で小山義政の仲介の下、宇都宮氏綱の弁明を入れて討伐は中止されました。
こうして、尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって、代々の東国武家の畠山国清と宇都宮氏綱が務めていた、関東管領職と越後・上野守護職は公式に剥奪されました。
新興勢力の憲顕がその後釜に座り、上杉氏は代々その職に就くこととなりました。
1367年に基氏が死去し、翌年、憲顕が上洛した隙に蜂起した河越直重らの武蔵平一揆の乱に対して政治工作で対抗しました。
関東管領を継いだ甥で婿の上杉朝房が幼少の足利氏満を擁して、河越に出陣し鎮圧するのを助けました。
これにより、武蔵など鎌倉公方の直轄領をも、上杉氏が代々守護職を世襲することとなりました。
引き続き新田義宗や脇屋義治などの南朝勢力の鎮圧に後陣で当たりましたが、老齢のために足利の陣中にて死去しました。
墓所は高幡不動尊の境内に置かれ、上杉堂、上杉憲顕の墳などと称されています。
憲顕は足利氏に従って東奔西走し、南北朝の動乱を生き抜いて上杉氏発展の基盤を造りました。
最後は幼主を盛り立てて権力を握り、成功裏に終わった人生のようにみえますが、動乱の中でその人生は失意と嵯鉄に満ちたものでした。
1336年1月の京都合戦での敗北、1337年12月の北畠顕家との富根河合戦での敗北、1352年の薩壕山合戦での敗北、父憲房や兄憲藤らの討ち死に、主と仰ぐ直義の死などなど。
多くの悲痛な体験がありました。
成功ばかりではなく、多くの失敗から立ち直って築いた人生であり、憲顕の生き方は今の我々にも通じる所があるのではないかといいます。
第1部 上杉一族の鎌倉進出 第一章 勧修寺流藤原氏/第二章 上杉氏の成立
第2部 関東掌握への道 第一章 鎌倉幕府の滅亡と憲顕/第二章 越後・上野の支配/第三章 観応の擾乱と憲顕
第3部 没落から、再び栄光の座へ 第一章 薩堆山合戦と憲顕の失脚/第二章 雌伏の時代/第三章 再び関東管領に/第四章 憲顕の妻子とその後の山内上杉氏
参考文献/上杉憲顕関係年表/あとがき
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