ホスピスは緩和医療のことで、治る見込みのない病気の患者の苦痛や死の恐怖を和らげ、尊厳を保ちながら最期を迎えるケアです。

 近代ホスピスの5人の母と称されるのは、

 マザー・メアリー・エイケンヘッド(1787-1858)、フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)、シシリー・ソンダーズ(1918-2005)、キュプラー・ロス(1629-2004)、マザー・テレサ(1910-1997)

です。

 このうちマザー・エイケンヘッドは、ホスピスケアの原点を創ったことで知られています。

 ”ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド ”(2014年7月 春秋社刊 D.S.ブレイク著/細野容子監修/浅田 仁子翻訳)を読みました。

 19世紀植民地下のアイルランドで世界初のホスピスをつくった、マザー・エイケンヘッドの生涯と功績を紹介しています。

 著者のジューナル・S・ブレイクさんは、アイルランド・コーク生まれ、コーク大学にて修士号、ハル大学にて博士号取得しました。

 現在、ダブリンのマリノ・インスティテュート・オヴ・エデュケーションの学寮在住の、著述家・修道士=クリスチャン・ブラザーズです。

 監訳者の細野容子さんは京都府生まれ、住友病院、新生会第一病院などで臨床看護を経験し、広島国際大学をへて、岐阜大学医学部看護学科教授を務めています。

 訳者の浅田仁子氏は静岡県生まれ、お茶の水女子大学文教育学部文学科英文学英語学専攻卒業の翻訳家です。

 ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指していました。

 そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになりました。

 近代的ホスピスの源はアイルランドのメアリー・エイケンヘッドの働きに遡ります。

 しかし、ホスピス運動が普及するには1967年に創設された英国:聖クリストファーズ・ホスピスを待たねばならりませんでした。

 メアリー・エイケンヘッドは1787年にアイルランドのコークで生まれ、1858年にダブリンで71歳で亡くなりました。

 当時のコークは人口8万人の港町で北玄関橋と南玄関橋の間には、旧市街の壁に囲まれた地域が広がり、住民の多くが密集して暮らしていました。

 メアリーの父親のディビッドはスコットランド出の医師で、薬局を運営する薬剤師でもありました。

 ディビッドはプロテスタントでしたが、母親のメアリー・スタックポールはカトリックで商家の出でした。

 当時、宗派の違う者が結婚した場合、息子は父親の宗派を継ぎ、娘は母親の宗派を継ぐのが普通でした。

 しかし、エイケンヘッド夫妻の場合は、まだ若くて愛に夢中になっていた母親が、生まれる子供はみな父親の宗派で育てることに合意していました。

 子供は4人で、メアリーを筆頭に、ふたりの娘アンとマーガレット、息子セント・ジョンを授かりました。

 息子は病気がちで、10代後半に亡くなりました。

 メアリーは、1878年4月4日に、父親の教区教会のセント・アン教会、通称シャントン教会で英国国教会派聖公会の洗礼を受けました。

 メアリーは体が丈夫でなかったため、当時の医療通念に従い、イーソンズ丘に住んでいた乳母のメアリー・ローク夫人に養育してもらうことになりました。

 イーソンズ丘はシャントン教会北の高台にあり、低地より健康に良いとされていました。

 また、若いエイケンヘッド夫人は、自分の子供たちがプロテスタントとして育てられることを気にかけて、敬虔なカトリック信者のローク夫人に娘を託したようにも思われます。

 ミー・ローク、つまりロークお母ちゃんと、その優しい夫のダディー・ジョン=ジョンお父ちゃんは、この後メアリーの教育に重要な役割を果たすことになりました。

 ローク夫人は成長の段階に合わせて幼子の世話をし、メアリーは深い愛情を込め、夫人を第二の母として生涯敬慕しました。

 夫人はカトリック教会の儀式に従い、秘かに幼いメアリーにカトリックの洗礼を受けさせたといわれています。

 エイケンヘッド医師と若い妻は週に一度やってきて、娘の健康の改善状況を調べ、維持費と衣類を渡していました。

 ローク夫人はメアリーを実の子のように世話をし、自立することを教えました。

 メアリーもときどきはグランド・パレードを訪ね、妹たちに会っていました。

 1793年にメアリーが6歳になったとき、エイケンヘッド医師はドーンツ・スクェアの家族のもとにメアリーを戻そうと決意しました。

 メアリーは近くのプロテスタントの学校に通って、読み・書き・計算にフランス語、刺繍、音楽、ダンスのほか、社交上のたしなみなどを教わりました。

 エイケンヘッド医師はフランス革命のスローガンである、自由、平等、博愛に大きな影響を受けていました。

 そして、プロテスタント、カトリック、非国教徒の尊厳と雇用に対する公正な扱いに賛同していました。

 この運動の国民的指導者に対し軍の報復運動が発生したとき、その指導者をエイケンヘッド家にかくまったりしました。

 エイケンヘッド医師には、信仰の問題や病弱な息子の健康問題で悩まされていた上に、1798年の暴動による政治的副産物に悪影響を受けるようになりました。

 そこで、今までずっと働きつづけ充分な蓄えもできたので、診療所を売り引退して暮らそうと決意するに至りました。

 その結果、一家は転居しなくてはならなくなり、1799年にコーク市南部のラトランド通りにある、以前よりはるかに大きくて広々とした家を購入しました。

 このころ、エイケンヘッド夫人の姉妹の未亡人で、修道女の生活を忠実に真似た信仰生活を送っていたレベッカ・ゴーマン夫人がアイルランドに帰ってきました。

 夫人は長く大陸で暮らし、夫の死後、ブルージュのあるカトリックの修道院に付設された賄いつきの寄宿舎に移り住んでいました。

 ゴーマン夫人は、12歳となった利発なメアリー・エイケンヘッドに多大な影響を与えることになりました。

 メアリーは信仰について何度も長く話しこみ、借りたさまざまな本を熱心に読みました。

 やがて、エイケンヘッド医師は1801年の年末に重体に陥り、所属する教会から牧師が来て共に祈ったのですが亡くなりました。

 死に瀕して、自分からカトリックの司祭に会わせてほしいといい、妻の教派のカトリック教会に入りました。

 父親の改宗と死は、メアリーがカトリック教会に入る道を開きました。

 それから何年もの後、メアリーは、

 貧しい人びとのひどい状態を思うと、心が震えてなりません、でも、みじめな金持ちのことを思うときのほうが、はるかにおぞましくなります、

と書いています。

 メアリーは、心から神を信じ熱心に祈りを捧げた敬虔な女性でした。

 しかし、数多くの心配事や問題に対処しなくてはならなかった上に、病気や激痛にも苦しみました。

 体の痛みは年齢と共に悪化していき、晩年はベッドから離れられないようになり、移動には車椅子が必要でした。

 メアリーには長年抱いていた夢があり、貧しい人びと、特に、貧しさゆえに医療を受けられない人びとが年齢にも信条にも関係なく診てもらえる病院を開こうとしました。

 こうして、1834年にダブリンにセント・ヴィンセント病院を開院し、一病棟にシスターをふたり、医師をひとり置きました。

 この病院は、神に仕える女性たちが開き経営した最初の病院になりました。

 この種はしっかり根を張り、オーストラリアを含む世界の数多くの地域に広がり成長しつづけています。

第1章 幼少期―里親に育てられたコークでの日々/第2章 慈愛の種―シャンドンの鐘の近くで/第3章 貧しい人びとの叫びを聞く/第4章 使命を明確に―「神さま、道をお示しください」/第5章 成長と拡大―駆け出しの修道会/第6章 新たな冒険と先駆けの日々/第7章 混乱期―成長の痛み/第8章 病床からのリーダーシップ―衰弱と苦悩の只中で/第9章 ハロルズ・クロス―「主よ、汝の与えたまいしときは尽きました」/参考資料

[https://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]