中村正義は1924年に愛知県豊橋市の蒟蒻工場を営んでいた家に生まれ、1931年に松葉小学校に入学しました。
卒業後、豊橋市立商業学校に入学しましたが、1940年に病気のため中退しました。
療養中に南画家の夏目太果に水墨画を学び、日本画家の畔柳栄子に膠彩画を学びました。
”中村正義の世界 反抗と祈りの日本画”(2017年8月 集英社刊 大塚 信一著)を読みました。
病魔と闘いつつ日本画壇の閉鎖的な風土のなかで多数のユニークな業績を残した、中村正義の生涯と作品を紹介しています。
1942年に畔柳の先生だった杉山哲朗に師事しました。
1943年には父親が死去し1946年に母親が死去しました。
空襲で家を失った正義は、豊橋郊外に仮住まいをした後、松葉町の焼け跡に一間のバラックを建てて仮住まいから通って絵を描きました。
1946年に上京して中村岳陵の蒼野社に学びました。
同年に第2回日展に”斜陽”が初入選し、翌年に第32回院展に初入選を果たしました。
その後、戦後の日本画壇において異端的な作品を数々発表し、日本画壇の風雲児と呼ばれました。
大塚信一さんは1939年東京都生まれ、聖学院高校を経て、国際基督教大学教養学部卒業後、1963年に岩波書店へ入社しました。
思想編集部、岩波新書、現代選書、著作集など数々のシリーズ・講座・著作集を企画・編集しました。
1990年に編集担当取締役、1996年に代表専務取締役を経て、1997年から2003年まで代表取締役社長を歴任しました。
中村正義は子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできませんでしたが、22歳で日展に初入選したちまち頭角を現しました。
1950年に第6回日展に”谿泉”を出品し特選となりました。
1952年にも”女人”で特選を受賞しました。
その後肺結核療養のため、1957年まで制作を中断しました。
1960年に第3回新日展の審査員となりましたが、1961年に神奈川県川崎市細山に転居し日展を脱退しました。
以後、個展を開きながら活動し、1967年に直腸癌の手術を受けました。
1970年に東京造形大学の日本画教師となり、1974年に人人会を結成し、第1回人人展を開催しました。
1975年に東京展実行委員会事務局長として展覧会開催に奔走し、第一回東京展を実現させました。
1977年4月16日に肺癌のため享年52歳で死去しました。
速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されましたが、その後、破天荒な画風に転じ、日本画壇から激しいバッシングを受けました。
外の世界に仕事を求めた結果、映画用の注文作品や、雑誌の表紙や、リアリズム風の絵も手がけました。
スキャンダラスな舞妓、300を超えるグロテスクな顔、奇妙な仏画などを描きました。
中村正義の作品には、自画像、風景画、舞妓、花、仏画、歴史に題材をとった絵、人物画、社会風刺画、顔の連作など多様なものがあります。
しかし、それらがどう関係しているのか、正義のなかでそれぞれどのような位置を占めているのか、もう一つはっきりしません。
近年、正義の画業の本質を、閉鎖的で封建的な日本画画壇、あるいは政治や社会の動向、つまり時代に対する鋭い批判を前面に置いて捉えようとする考えがあります。
それはそのとおりですが、正義の作品から強い批判精神を除いてしまっては、その本質はけっして捉えられないでしょう。
でも正義の作品を見ていると、どうしてもそれだけだとは思えなくなってきます。
画壇のエリートだった男が、なぜそのような絵を描き続けたのでしょうか。
異端の画家の生涯を見直し、その作品を解読を試みることにします。
中村正義の生涯について、骨太なタッチで提えるとどうなるでしょうか。
そこから、正義の芸術家としての独自なあり方が浮んでくるかもしません。
なぜ、正義は舞妓を描いたのでしょうか。
そしてなぜ、あのような特異な舞妓像を生涯描き続けたのでしょうか。
なぜ正義は多くの仏画と風景画を描いたのでしょうか。
また生涯描き続けたのでしょうか。
正義はなぜ多数の自画像を含めて顔の連作に取り組んだのでしょうか。
顔にこだわった理由は何なのでしょうか。
どうして自分か描いた顔の絵に、何回も何回も手を入れなければ、気がすまなかったのでしょうか。
このような視点から、中村正義という近代日本が生んだ特異な画家の生き方と作品に迫ろうとしています。
正義は1965年に、ルオーの作品の前に立って、少なからぬ心の動揺を禁じえないことを、しばしば経験すると書き始めています。
ある時は、その激しさが、狂気の如く、ある時はそのお道化ぶりが、人を嘲笑するかの如く、圧倒的におおいかぶさってきます。
そしてその激しさは、誠実に、厳しく、生きぬいた、人間の努力の、熱烈な、証でもあるかの如くと続けました。
この正義の言葉は、そのまま正義自身について妥当すると思う、といいます。
ルオーはキリスト教の信仰をもって、キリスト、道化、娼婦などを描きました。
そして修正と加筆をくりかえしました。
それは神への祈りそのものの作業であったはずです。
正義は舞妓像を、仏画を、山水画を祈りとして描きました。
それは、自分の仏性に根拠を求めて祈り、描いたといえるのではないでしょうか。
また、最後の最後まで顔を描き続けた正義と比する意味で、正義と同じく52歳で1993年に亡くなった女性画家ハンナ・ウィルケについて考えています。
ウィルケは自らの肉体を素材に作品を制作しましたが、そこに祈りはありません。
正義は面話という手法で自分の内面を徹底的に探求しつつ、まるで化物のような顔を描き続けました。
正義は舞妓という日本社会の歪んだあだ花を糾弾し、水俣などの公害問題、汚職事件を追及しました。
また、日本画壇の古い体質とその伝統的美意識の虚妄性に果敢に挑み続けました。
その意味で、徹底した反抗心の持ち主だったといえるでしょう。
しかし、舞妓・仏画・山水画そして顔を描き続けているうちに、自らの死の自覚とあいまって、それは祈りへと変わってきたのでした。
なお、主要作品116点がオールカラーで掲載されています。
プロローグ Kさんへの手紙/第1部 中村正義の生涯/第2部 中村正義の絵画、その秘密(なぜ舞妓を描き続けたのか;仏画と風景画の意味;顔の画家)/エピローグ Kさんへの第二信
[https://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]