朝日文左衛門は朝日重章の通称で、江戸時代前期から中期の武士でした。
尾張名古屋藩士で、1691年から1718年までの26年8ヵ月、当時の世相、事件、物価、天候気象、芝居、身辺雑記などをしるした”鸚鵡籠中記”をのこしました。
”遠いむかしの伊勢まいり-朝日文左衛門と歩く”(2013年10月 FTC中央出版刊 大下 武著)を読みました。
およそ300年前の、朝日文左衛門の三度目の伊勢まいりを紹介しています。
大下 武さんは、1942年生まれ、早稲田大学文学部を卒業し、愛知県立高校教諭を経て、春日井市教育委員会文化財課専門委員を務めました。
伊勢神宮は天照大神の神社として、公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていました。
中世の戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃していました。
伊勢神宮を建て直すため、祭司を執り行っていた御師が農民に、伊勢神宮へ参詣してもらうように各地へ布教するようになりました。
中世には、現世に失望し来世の幸福を願い沢山の人々が寺院へ巡礼しました。
やがて、神社にも巡礼が盛んになりました。
街道の関所が天下統一により撤廃され、参詣への障害が取り除かれました。
江戸時代以降は五街道を初めとする交通網が発達し、参詣が以前より容易となりました。
世の中が落ち着いたため、巡礼の目的は来世の救済から現世利益が中心となり、観光の目的も含むようになりました。
当時、庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限がありましたが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮でした。
特に商家の間では、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合、親や主人はこれを止めてはならないとされていました。
たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠のお守りやお札などを持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたといいます。
伊勢神宮参詣は、多くの庶民にとって一生に一度とも言える大きな夢でした。
朝日定右衛門重章は、延宝2年=1674年に尾張藩徳川家御天守鍵奉行、知行100石の子として生まれました。
元禄4年=1961年6月13日から日記を書き始め、享保2年=1718年12月29日で日記を絶筆しました。
1693年に弓術師匠の朝倉忠兵衛の娘けいと結婚しましたが、女癖が悪く後に離婚しました。
その後、すめという農家出身の娘と結婚しましたが、すめも嫉妬深い性格で暴力も振るわれ、家庭環境に生涯悩まされました。
1694年に家督を継ぎ、御城代組、御本丸御番、知行100石となりました。
1700年に藩の御畳奉行となり、役料40俵となりました。
1708年に定右衛門に改名し、1709年に一人娘のおこんが嫁ぎました。
この頃より深酒が祟り、健康状態を害する事が多くなり、1718年10月7日に45歳で死去しました。
死後、跡継ぎに娘しかいなかったため養子を立てましたが、病弱であったためほどなく知行を返上しました。
朝日家が断絶したため、経緯は不明ながら鸚鵡籠中記は尾張藩の藩庫に秘蔵されたといいます。
その後、昭和40年代までの約250年にわたって公開されず、まぼろしの書として存在のみが知られていました。
愛知県北部の春日井市は名古屋市に隣接した地で、江戸時代の尾張藩あるいは名古屋藩に含まれ、普通は尾張殿と敬称で記したそうです。
江戸の絵図にも尾張藩上屋敷ではなく、尾張殿上屋敷と記されています。
朝日文左衛門重章は根っからの好人物で、友人にも恵まれ、妻を除けば生涯喧嘩らしい喧嘩をしていません。
その日記は27年間、元号でいうと貞享から元禄、宝永、正徳、そして享保に及びます。
はじめての伊勢まいりは元禄6年=1693年3月のことで、文左衛門重章は数えの20歳になり、区切りの年でした。
次月に婚礼が控えていて、月末には名君の誉れ高い尾張二代藩主徳川光友が隠居、実子の綱誠が就封する予定でした。
婚礼後の7月には父重村が隠居願いを出し、いよいよ文左衛門もひとり立ちすることになっていました。
2度目の伊勢まいりは元禄8年=1695年4月半ば過ぎ、文左衛門22歳のときでした。
前年の暮れに家督相続が聞き届けられ、文左衛門は正式に朝日家の当主となりました。
正月には御本丸御の初出勤を済ませ、3月には妻のけいが無事女児おこんを出産し、9月には両親が敷地内に増築した隠居部屋に移りました。
そして、3度目の伊勢まいりは第47回の式年遷宮に合わせ、宝永6年=1709年4月のことでした。
この年の正月、犬公方と渾名された将軍綱吉が没しました。
4月半ばの伊勢まいり直後に、文左衛門の娘おこんと水野権平の息子久治郎の縁談がまとまりました。
本書では、鸚鵡敵中記を拠り所に、伊勢神宮そのものより旅程の紹介に重きをおいたということです。
第1章 坊さんの伊勢まいり
第2章 尾張藩士「朝日文左衛門」の登場
第3章 朝日文左衛門の伊勢まいり