夏目漱石・鏡子夫人には、長男・純一、二男・伸六、長女・筆子の3人の子供がいました。

 純一はヴァイオリン奏者、伸六は随筆家で、筆子は小説家の松岡譲と結婚しました。

 夏目房之介は純一の子供です。

 ”漱石の孫”(2006年5月 新潮社刊 夏目 房之介著)を読みました。

 100年の時間を経てかつて漱石が下宿していた部屋を訪れ、英国と日本、近代と現代、文学とマンガなど交錯する思いの中でふり返る夏目家三代の歴史が描かれています。

 純一は1907年に東京市牛込区で生まれ、暁星小学校在学中、父・漱石からフランス語の手ほどきを受けました。

 しかし、勉強嫌いで学業を捨てて、ヴァイオリンを宮内省管絃楽部の山井基清に、ドイツ語を内田百閒に師事しました。

 1916年に父が亡くなり、亡父の潤沢な印税を背景として、1926年、5ヵ年の予定でベルリンに留学しました。

 ジプシー音楽に魅了されてウィーンからブダペストへと移り、ブダペスト音楽院に遊学しました。

 ヴァイオリンを学びつつ、テニスや乗馬、猟に興じ、誂えのスポーツカーを乗り回し、貴族と交遊しました。

 1939年に第二次世界大戦勃発により帰国し、東京交響楽団に第一ヴァイオリン奏者として参加しました。

 そこで知り合った三田平凡寺の二女でハープ奏者の、嘉米子と1945年に結婚しました。

 夏目房之介は1950年に東京都港区高輪で生まれました。

 教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎を受験しましたが失敗し、区立高輪台小学校に通いました。

 中学から青山学院に入学し、青山学院高等部を経て、青山学院大学文学部史学科に進み中国史を専攻しました。

 大学在学中に実家を出て中野で恋人と同棲し、新宿や渋谷のジャズ喫茶に入り浸る青春を送りました。

 吉本隆明、大江健三郎、ドストエフスキーなどを愛読していたそうです。

 卒論のテーマは五四運動でした。

 1973年に恋人と結婚して世田谷区給田に転居し、杉並区にあった小さな出版社に入社しました。

 雑誌の編集の片手間に、挿絵イラストレーターとしての副収入を得、次第に仕事のウェイトを副業に移しました。

 就職3年目の1976年に会社が倒産し、そのままフリーのイラストレーターとして独立しました。

 1975年に作品集を自費出版し、尊敬する手塚治虫に見てもらったそうです。

 1978年から週刊朝日の新コーナーのイラストを担当するようになり、これが1982年に夏目をメインとした漫画コラムへと発展するに至りました。

 この連載が夏目の名を有名にし、漫画コラムニストとしての評価を固めました。

 1986年からディレクターが夏目のファンであった縁からTBSのクイズ番組に出演し、1988年からNHK教育テレビの土曜倶楽部にもレギュラー出演するようになりました。

 以降、NHKにたびたび出演するようになりました。

 漫画家としては、谷岡ヤスジや土田よしこ、佐々木マキの影響下に、シュールな作風のギャグ漫画を発表しました。

 また、漫画評論も行っており、コマと描線に着目して分析を行う手法を採用していた1999年に、第3回手塚治虫文化賞マンガ特別賞を受賞しています。

 房之介自身、若い頃には”漱石の孫”というレッテルを重荷に感じていたといいます。

 また、漱石の本名”金之助”と似た”房之介”という名前も嫌っていたそうです。

 しかし、年齢を重ねるにつれ、それまで嫌っていた漱石に向き合うことに興味を抱きました。

 1996年の”不肖の孫”では、漱石と平凡寺のことを書きました。

 房之介にとって祖父といえば、会ったことがない漱石ではなく、自分を可愛がってくれた平凡寺のことだといいます。

 漱石は49歳で亡くなり、房之介は漱石に直接会ったことがありません。

 また、NHKの番組”世界わが心の旅”の企画でロンドンの漱石の下宿等を訪問したことから、その時に感じた内容をもとに2003年に執筆したのが本書です。

 2006年には、”孫が読む漱石”を刊行しています。

 この年に妻と離婚していますが、5年後の2009年に復縁しました。

 2008年に学習院大学大学院に新設された人文科学研究科身体表象文化学専攻の教授に就任しました。

 ほかに花園大学文学部創造表現学科で客員教授、京都大学で非常勤講師を務めています。

 このように、マンガ・コラムニストとして活躍中の著者が、偉大な祖父・夏目漱石への思いを初めて赤裸々に語った、漱石渡英100年後のロンドン訪問記です。

第1章 漱石と出会う
第2章 夏目家の鬼門
第3章 漱石観光
第4章 漱石と僕
第5章 文学論とマンガ論
第6章 業の遺伝
第7章 百年後の猫