吉田稔麿は、幕末を舞台にした映画、ドラマ、アニメやゲームにはたびたび登場しています。
幕府方に潜入し、外国艦を撃ち、奇兵隊を指導するなど、神出鬼没の働きぶりを示しました。
そして、池田屋事変において24歳で斃れた、幕末乱世をひたむきに走り抜けた青年武士です。
”吉田稔麿 松蔭の志を継いだ男”(2014年8月 KADOKAWA刊 一坂 太郎著)を読みました。
松下村塾に学び、高杉晋作・久坂玄瑞と並び称される三傑の一人、吉田稔麿の生涯を紹介しています。
一坂太郎さんは1966年兵庫県芦屋市生まれ、大正大学文学部史学科を卒業し、東行記念館学芸員・副館長を務めました。
閉館後、萩博物館高杉晋作資料室長、防府天満宮歴史館顧問を経て、山口福祉文化大学特任教授を務めています。
長州萩で松陰が主催した松下村塾は、幕末から明治にかけて活躍した、多数の人材が輩出したことで知られています。
その中でも、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿は松陰門下の三秀と称され、入江九一を入れて松門四天王ともいわれています。
吉田稔麿は、1841年に萩藩松本村新道に軽卒といわれる、十三組中間の吉田清内の嫡子として生まれました。
名は栄太郎で、後に稔麿と改名しました。
生家は松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑があります。
稔麿は、松陰以前、久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていました。
稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったといいます。
宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修めました。
松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究めました。
吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて三無生と称することがあります。
稔麿が無逸、増野が無咎、松浦が無窮と称したことに由来します。
松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価し、高杉晋作を陽頑と評したのに対し、稔麿を陰頑と形容しています。
松陰が良い点も悪い点も自分に似ていると評し、自分の志を継いでくれると、もっとも期待した門下生です。
乱世に生きていると強く自覚していた稔麿は、その波に乗って下級武士の身分からはい上がろうとの、野心を抱きました。
危険を顧みず、身分を詐称して幕府方に潜入するという、まるで講談小説のような活動も行っています。
1858年に松陰に下獄の命が下されると親族一門を守るため師の元を一時離れますが、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されています。
松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明ですが、万延元年の1860年10月に脱藩しているものの、1862年にはその罪を許されています。
1863年6月に高杉晋作の創設した奇兵隊に参加し、7月に屠勇隊を創設しました。
8月の朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功しました。
この年に稔麿と改名しました。
長州藩には栄太郎より三つ年少の吉田栄太郎という八組上がいて、後付の史家たちも二人を混同してきました。
1863年まではこの吉田栄太郎が二人存在していました。
そこで藩から改名を命じられ、吉田年麻呂になりました。
書簡では、年麿、年まろ、年丸、とし丸、稔丸と署名しています。
高杉晋作の書簡には、吉田稔麿の名前が見られます。
明治以降はこの稔麿の呼称が多くなっています。
1864年6月5日の池田屋事件では、吉田も出席していましたが、一度屯所に戻るために席を外しました。
しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死しました。
最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされています。
別に、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられること無く、門前で自刃したという話もあります。
享年24歳でした。
1891年に従四位を追贈されました。
品川弥二郎子爵は、稔麿が生きていたら総理大臣になっただろうと語ったとされています。
第一章 松陰との出会い
吉田稔麿の生い立ち/人生の大転機/松下村塾での逸話
第二章 乱世に飛び込む
松陰の志を継ぐ/幕府に潜入/松陰と絶縁する/松陰との永遠の別れ
第三章 旗本の家来になる
乱世を呼ぶ一揆/長州藩の動向/隆盛する薩摩藩
第四章 攘夷実行
シンボルとしての松陰/ついに攘夷を断行/奇兵隊とともに
第五章 京都に散る
朝陽丸をめぐって/江戸から京都へ/池田屋事変の悲劇/劇的に描かれる稔麿の最期
主要参考文献/吉田稔麿略年譜