かつて、内田百閒、高村光太郎、永井隆、夏目漱石、正岡子規など、極小の空間を楽しみながら住んだ先人たちがいます。
 
 ”二畳で豊かに住む”(2011年3月 集英社刊 西 和夫著)を読みました。
 
 人間ははたして二畳で暮らせるのか、狭いながらも楽しい我が家とは何かなど、究極の住居の実例を示しつつ住むことの根源を考えさせます。
 
 狭いながらも豊かな空間とは、自分の意志で積極的に住み、友人、支持者などと深いつながりをもち、狭いが充実した意義深い空間であるといいます。
 
 西和夫氏は1938年東京都生まれ、東京工業大学大学院博士課程修了、神奈川大学名誉教授です。
 
 日本建築史専攻で、歴史・民俗・美術史と学際的な交流を続け、各地の町並み調査と町づくりを行っています。
 
 豊かになった現代の住宅ですが、住まいの貧困に関するニュースにこと欠きません。
 
 無届け低額宿泊所はその例で、生活貧困者の部屋はわずか三畳です。
 
 やりきれない世相ですが、暗い話ばかりではありません。
 
 たとえばシェアハウスでは、住宅街の一軒屋の和室に6人が暮らします。
 
 部屋は十畳であれば、一人のスペースは二畳もありません。
 
 しかし、シェアハウス独特のコミュニティが生まれ、住み手の顔は明るいといいます。
 居間や台所は共同で二畳だけで住むわけではありませんが、狭い空間の積極的な利用は現代的です。
 
 ほかにも、ネットカフェ、キャンピングカーや宇宙船などもあげられます。
 
 大戦直後の住まいのなかった時代、生きるのに大変だった時代がありましたが、そんなときでも人々は工夫をして狭い空間で豊かに過ごしました。
 
 狭いながらも楽しい我が家というのは、どんな時代でも住まいのひとつの理想像であるちがいありません。
 
 狭さの意味、狭さの価値、それは何なのでしょうか。
 
 たとえば、二畳ではどうでしょうか。
 
 たぶんみんな、無理と言うでしょう。
 
 しかし実質二畳に、しかも夫婦二人で住んだ人がいます。
 
 作家の内田百聞です。
 
 わずか三畳、うち一畳は上が物置なので実質二畳、ここに奥さんと住みました。
 
 彫刻家で詩人の高村光太郎は、戦災で焼け出され、花巻の奥の山小屋に一人で住みました。
 
 畳はわずか三枚半、そこにふとんを敷きました。
 
 長崎の医者永井隆は、二畳の部屋で病に臥しつつ子供二人と住み、世界平和を訴えました。
 
 少し事情が異なりますが、多摩川に今のように橋が架かっていなかったころ、渡し船が活躍し、渡船小屋があって船頭が住んでいました。
 
 小屋は二畳、畳一枚に土間一畳、川が氾濫したら”よいしょ”と移動させました。
 
 明治の文豪夏目漱石は、若いころ、友人と二人で二畳の部屋に住みました。
 
 この空間があの漱石を育てました。
 
 俳句と和歌の正岡子規は、病気の身を横たえるふとん一枚が我が世界だと書きました。
 四国の村はずれに建つ小さなお茶堂は、遍路たちの貴重な宿泊空間でした。
 
 住居とやや性格が異なりますが、住空間の極限的存在です。
 
 第二次世界大戦後まもなく、建築家たちは最小限住居の提案をしました。
 
 安東勝男は七坪の住宅を提案し、池辺陽は立体最小限住居を造り、増沢洵も最小限住居を造りました。
 
 狭さの追究は、住宅とは何かの追究でもありました。
 
 生活が豊かになった現在、狭い住居の工夫を知って住空間の意味を再検討し、空間の豊かさを探ってみるのも、意味のないことではないでしょう。
 
はじめに-狭いながらも豊かな空間
第1章 内田百閒、二畳に夫婦で住む-作家が語る小屋生活
第2章 高村光太郎の山小屋-雪深い里で詩作にはげむ
第3章 永井隆の二畳の如己堂-原爆の町で平和を求めて
第4章 多摩川渡場の小屋-氾濫したら持ち運ぶ
第5章 夏目漱石・中村是公、二人の二畳の下宿-予備門時代を語る漱石
第6章 正岡子規の病床六尺-ふとん一枚、これが我が世界
第7章 四国、村はずれのお茶堂-遍路たちの一夜の宿
第8章 建築家提案の最小住居-極小空間の特色
おわりに-狭いながらも楽しい我が家