空海の価値観や行動規範の根底には、洞察力の鋭さと論理的な思考と的確な判断力があるそうです。
しかし、空海の魅力はそこにあるのではなく、もっと幅広く大きな視野から物事をとらえ、そこに潜んでいる本質を直観的につかまえる能力にあるとのことです。
その視野と能力がどのようにして身についたのでしょうか、どのような体験や経験がそれを助けたのでしょうか。
さらに、どのような人物から影響を受けたのでしょうか、
”空海のこころの原風景”(2012年12月 小学館刊 村上 保壽著)を読みました。
いまも不思議な魅力と人気がある弘法大師、空海のこころの原風景を紹介しています。
そのためにどのような縁があったのかということに関心が向くようになった、といいます。
村上保壽さんは、1941年京都府生まれ、東北大学文学部哲学科卒業後、大学院文学研究科修士課程修了、東北大学助手、山口大学教授、高野山大学教授を経て、総本山金剛峯寺執行・高野山真言宗教学部長、高野山伝燈大阿闍梨です。
空海は774年に讃岐国多度郡の郡司、佐伯氏の出身で、母方は阿刀氏です。
15歳で上京して母方の叔父,阿刀大足に師事し、18歳で高級官僚養成のための大学に入りますが、まもなく退学して仏教的な山林修行をはじめました。
24歳のとき、ある出家から虚空蔵求聞持法を教示され、四国の大滝岳や室戸崎などでの修行によって効験を得ました。
これを転機として、空海の人生コースは官僚の道から僧侶の道に切りかえられました。
31歳のとき第2の転機にめぐりあい、唐へ留学しました。
2年間の留学から帰国した806年から、無名の人から著名な人物に変身して、真言宗の開祖への道を歩みはじめました。
空海は、平安時代初期の仏教界に新鮮な息吹を与えました。
空海が創設した真言密教とその学派である真言宗は、南都六宗と呼ばれている奈良時代の仏教がいずれも中国伝来の仏教思想であったのに対して、日本ではじめて生まれた仏教思想でした。
空海は、留学僧として遣唐使船に乗り、苦難の末、唐の都・長安に入り、恵果和尚から密教の正統な教えを継承し、日本に漢訳の密教経典を持ち帰りました。
当時、密教は、国家から独立した仏教の学派とは認められてはいませんでした。
帰国後、空海は、持ち帰った密教を独自性のある学派として国家に承認してもらうために、ただひたすら理論化の作業に没頭しました。
空海は、この困難な問題をみごとに乗り越え、中国ではやがて消えてしまう密教を確固とした教えとして開宗し、生き生きとした思想として残しました。
新しい密教を構想する着想は、空海の生まれながらに持っていた才能と考えることもできますが、才能を磨き開花させた空海自身の数々の体験があったからこそ成し遂げられたのではないでしょうか。
空海の才能の豊かさは、感性の鋭さ、とくに直観力のすごさにあります。
詩文や、三筆の一人にあげられる書の卓抜さをはじめとして、多芸多才といわれている能力は、感性の豊かさを証明していて、また思考の幅広さと柔軟さを示しています。
このような空海の才能は、普通の人では気がつかないような些細な出来事や現象、あるいは人との出会いや会話からでも、隠された本質を直観することができたようです。
空海は、人間以外のあらゆるものにも人間と同じこころの存在を見ていました。
自然界の獣や鳥や魚などだけでなく、山川草木にもこころの存在を認めていました。
こころは、心や意や識の意味に加えて、魂や、霊や、霊魂、あるいは、いのちや精神と言い換えることができる意味内容を持っています。
こころがこのように幅広い意味内容を持っていたからこそ、空海は、人や社会はもちろん、動植物や山河のこころと対話し、交流し、自然界のリズムに従って共に生きているこころであり得たのではないでしょうか。
隠されている仏の智慧を全身全霊をもって知ろうとする密教の本質を把握するこころは、人間の主観的な心でも意でも識でもなく、まさに鳥獣や山川草木のこころに通じるものでした。
空海のこころを生み出し育てたものは、まさに大自然であったり、若いときの体験であったり、師である恵果和尚との出会いであったりします。
感性の豊かさも、思考の幅広さと柔軟さも、空海のこころの豊かさと柔軟さを表しているといえます。
このこころを生み出した環境や体験は、空海が真言密教を構想するとき、こころの奥に原風景としてしっかりとあったのでないかということです。
第1章 空海の原風景
若き空海の修行/自然に向ける目線/仏の智慧、仏の世界/大自然のいのち/空海の生きる姿勢)
第2章 仏のこころー大いなる慈悲とその実践
仏の境地/関係のあり方がすべてである/慈悲の実践について/仏の子育て
第3章 空海のこころを生きる
見えないものを見る/個と全体の関係のあり方/縁と人生/永遠を生きる/大師信仰を生きる
しかし、空海の魅力はそこにあるのではなく、もっと幅広く大きな視野から物事をとらえ、そこに潜んでいる本質を直観的につかまえる能力にあるとのことです。
その視野と能力がどのようにして身についたのでしょうか、どのような体験や経験がそれを助けたのでしょうか。
さらに、どのような人物から影響を受けたのでしょうか、
”空海のこころの原風景”(2012年12月 小学館刊 村上 保壽著)を読みました。
いまも不思議な魅力と人気がある弘法大師、空海のこころの原風景を紹介しています。
そのためにどのような縁があったのかということに関心が向くようになった、といいます。
村上保壽さんは、1941年京都府生まれ、東北大学文学部哲学科卒業後、大学院文学研究科修士課程修了、東北大学助手、山口大学教授、高野山大学教授を経て、総本山金剛峯寺執行・高野山真言宗教学部長、高野山伝燈大阿闍梨です。
空海は774年に讃岐国多度郡の郡司、佐伯氏の出身で、母方は阿刀氏です。
15歳で上京して母方の叔父,阿刀大足に師事し、18歳で高級官僚養成のための大学に入りますが、まもなく退学して仏教的な山林修行をはじめました。
24歳のとき、ある出家から虚空蔵求聞持法を教示され、四国の大滝岳や室戸崎などでの修行によって効験を得ました。
これを転機として、空海の人生コースは官僚の道から僧侶の道に切りかえられました。
31歳のとき第2の転機にめぐりあい、唐へ留学しました。
2年間の留学から帰国した806年から、無名の人から著名な人物に変身して、真言宗の開祖への道を歩みはじめました。
空海は、平安時代初期の仏教界に新鮮な息吹を与えました。
空海が創設した真言密教とその学派である真言宗は、南都六宗と呼ばれている奈良時代の仏教がいずれも中国伝来の仏教思想であったのに対して、日本ではじめて生まれた仏教思想でした。
空海は、留学僧として遣唐使船に乗り、苦難の末、唐の都・長安に入り、恵果和尚から密教の正統な教えを継承し、日本に漢訳の密教経典を持ち帰りました。
当時、密教は、国家から独立した仏教の学派とは認められてはいませんでした。
帰国後、空海は、持ち帰った密教を独自性のある学派として国家に承認してもらうために、ただひたすら理論化の作業に没頭しました。
空海は、この困難な問題をみごとに乗り越え、中国ではやがて消えてしまう密教を確固とした教えとして開宗し、生き生きとした思想として残しました。
新しい密教を構想する着想は、空海の生まれながらに持っていた才能と考えることもできますが、才能を磨き開花させた空海自身の数々の体験があったからこそ成し遂げられたのではないでしょうか。
空海の才能の豊かさは、感性の鋭さ、とくに直観力のすごさにあります。
詩文や、三筆の一人にあげられる書の卓抜さをはじめとして、多芸多才といわれている能力は、感性の豊かさを証明していて、また思考の幅広さと柔軟さを示しています。
このような空海の才能は、普通の人では気がつかないような些細な出来事や現象、あるいは人との出会いや会話からでも、隠された本質を直観することができたようです。
空海は、人間以外のあらゆるものにも人間と同じこころの存在を見ていました。
自然界の獣や鳥や魚などだけでなく、山川草木にもこころの存在を認めていました。
こころは、心や意や識の意味に加えて、魂や、霊や、霊魂、あるいは、いのちや精神と言い換えることができる意味内容を持っています。
こころがこのように幅広い意味内容を持っていたからこそ、空海は、人や社会はもちろん、動植物や山河のこころと対話し、交流し、自然界のリズムに従って共に生きているこころであり得たのではないでしょうか。
隠されている仏の智慧を全身全霊をもって知ろうとする密教の本質を把握するこころは、人間の主観的な心でも意でも識でもなく、まさに鳥獣や山川草木のこころに通じるものでした。
空海のこころを生み出し育てたものは、まさに大自然であったり、若いときの体験であったり、師である恵果和尚との出会いであったりします。
感性の豊かさも、思考の幅広さと柔軟さも、空海のこころの豊かさと柔軟さを表しているといえます。
このこころを生み出した環境や体験は、空海が真言密教を構想するとき、こころの奥に原風景としてしっかりとあったのでないかということです。
第1章 空海の原風景
若き空海の修行/自然に向ける目線/仏の智慧、仏の世界/大自然のいのち/空海の生きる姿勢)
第2章 仏のこころー大いなる慈悲とその実践
仏の境地/関係のあり方がすべてである/慈悲の実践について/仏の子育て
第3章 空海のこころを生きる
見えないものを見る/個と全体の関係のあり方/縁と人生/永遠を生きる/大師信仰を生きる