哲学とは何でしょうか、哲学者とはどんな人たちでしょうか。

 ”哲学者は午後五時に外出する”(2000年11月 夏目書房刊 フレデリック・パジェス著/加賀野井秀一訳)を読みました。

 哲学者のアフター・ファイブを大切にして、様々な哲学者の瑣末なエピソードを紹介しています。

 今日、私たちが哲学者と呼んでいる人たちのほとんどは、哲学で生計を立ててはいなかった、そうです。

 パジェス・フレデリックさんは哲学の教授資格所有者で、文学・音楽・美術など各界の権威にも果敢に挑む、”キャナール・アンシェネ”紙の記者です。

 加賀野井秀一さんは1950年高知市生まれで、1983年中央大学仏文科大学院博士課程中退、1987年中央大理工学部専任講師、1990年助教授、1998年教授です。

 哲学者たちも肉体を持たないわけではありません。

 彼らはいかに生き、食べ、愛してきたのでしょうか。

 いわゆる哲学者たちは哲学の勉強はしませんでしたし、教えることもしませんでした。

 彼らの職業は、聖職者(聖アウグスティヌス、マルブランシュ、バークリー)、政治家(マルクス・アウレリウス、セネカ)、占星術師(ジョルダーノ・ブルーノ)、行政官(モンテーニュ)、物理学者や数学者(パスカル、デカルト)、外交官(ライプニッツ、ロック)、私設秘書(ホッブズ、ヒユーム)、ホームレス(ルソー)、宮内庁役人(メーヌ・ド・ビラン)、年金生活者(ショーペンハウアー、キルケゴール)など、一定してはいませんでした。

 哲学者は職業別社会階層ではなかった、のだそうです。

 最も美しい哲学的植物は、つねに大学という温室の外に育ってきました。

 デカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツ、ディドロ、ルソーは教授ではありませんでしたし、免状を持ってもいませんでした。

 これらの人たちは聖職者と文学者との中間にいて、さまざまな立場の間でバランスをたもっていたどこからきたのか分からない綱渡りの芸人たちであり、社会的には哲学はユートピアでした。

 共和国で採用されるまではホームレスであったこの不思議な連中は、生きのびるためには、つねに経済的な離れわざを演じなければならりませんでした。

 この本は、哲学者についてのいろいろな疑問に答えながら、懐具合はどうだったか、孤独ではなかったか、住まいはどんなだったか、といった、その他の問いにもこたえながら、偉大な哲学者たちに、生き生きとした姿をとりもどすことを意図したものです。

 たとえば、喧嘩好きのデカルトは、あまりデカルト主義的な生活をしていませんでした。

 聖アウグスティヌスは、当世風にいえば”マグレブ人”云々、ということになります。

 マグレブは、地理的に現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジア三国を指します。

 カントは先験的弁証法だけではなく、男性用ガーターベルトをも発明しました。

 哲学は、注釈に注釈を重ねるだけのものではありませんし、聖なるテクストを反芻するだけのものでもありません。

 それはまた、生活の仕方そのものなのです。

 傑出した思想家からの内にこそ、かえって極端な形で現れてくる人間そのもの宿命に思いいたらざるをえなくなります。

 やはり、哲学者の瑣末なエピソードほど面白いものはこの世のなかにはない、と感じます。

 哲学者諸君、身分証明書を提示せよ/カントの召使い/内通者ソクラテス/プロイセン様式/デカルト、悪しきフランス人/饗宴の時代/真昼の悪魔/バシュラールの涙/清潔理性批判/大いなる魂と小さな男根/ホッブスの杖/アリストテレスの桶/啓示を受けた人たち/エロイーズとアベラール/サルトル、シモーヌ、イェニーと他の人々/生きた言葉について/限定された読者について/書物の墓碑/臨終の時