<「戦国時代の主役“.徳川家康”(15)」・・・「関ケ原の戦いⅣ」>
・・・「関ケ原の戦いの後」
「関ヶ原の戦い」で「西軍」が負け、「三成」ら西軍の武将は各地に逃走を開始しました。「西軍」についた「島津義弘」は「東軍の陣」に突っ込んで、活路を見出し、なんとか逃げ帰ったとの逸話があります。
しかし、結局、「三成」は捕まり「三条河原」で「小西行長」「安国寺恵瓊」などと共に打ち首となったとのことです。
⦅「石田三成」の墓 ⦆
(オンライン画像より)
「家康」は「関ヶ原の戦い」での「論功行賞」を開始します。 「家康」は「東軍」についた武将たちに領地を与え、「家康」自身の領地も255万石から400万石までに増やしたとのこと。
一方で「西軍」についた「武将」は「改易」や「減封」という処罰で対処します。
・「上杉家」は会津120万石から米沢30万石に。
・「西軍」の実質的な総大将であった「毛利家」は広島112万石から萩36万石など3分の2の大幅な領地を失います。
・「宇喜多秀家」は岡山52万石が没収された上で八丈島に流されます。
・「長宗我部盛親」は土佐を失ってしまい、京都で寺子屋をやるようまでに落ちぶれてしまいます。
・「豊臣家」も関ヶ原の戦いの戦いには参加していないものの、「三成」を討伐した大名たちに領地をあげるという名目のもとで、220万石から65万石まで減らされます。
これによって「徳川家」と「豊臣家」の勢力は大差になって来ました。
【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】
この戦いで、「家康」は、領地も強大になり、一強の状態になって、実質「天下」を取ったことになりました・・・そして、やがて「征夷大将軍」となり、「徳川幕府」を開くことになります。
「反家康勢力」の主力のほとんどを排除すると共に、「西軍」に参加した「大大名」達を減封することによって、勢力を削ることが出来たことになります。このため、今後の反撃を防ぐことになりました・・・その後、「江戸時代」になると、味方になった「大名」も一つ一つ崩していく政策(「お家取りつぶし)をとります。今回の処分は、その先がけと言えそうです。
「秀吉」が、自分より石高の高い「家康」をそのままにしていたことにより、死後、逆転されてしまったのかもしれません。
( 注記 )
※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味のある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]
・・・次回は「「家康」の西洋外交」
