歴史の探検《 “戦国時代”(249) 》・・・「本能寺の変Ⅰ」・・・「直前の状況Ⅰ」 | 季節の旅人のブログ

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<「戦国時代の主役“織田信長”(177)」・・・「本能寺の変Ⅰ」>・・・「直前の状況Ⅰ」

 

 「信長」は、新たにできた「信長包囲網」を次々と攻撃し瓦解させてきました。「丹波」攻略、「石山本願寺」との和解、「加賀一向一揆」・「武田勝頼」を滅ぼし、「近畿」「中部」「北陸」「甲信」の広大な領国を持つことになります。

 

 そして、東方は、「徳川氏」「後北条氏」と同盟状態にあり、常陸「佐竹氏」とは以前より外交関係があります。また、東北では「伊達氏」「最上氏」「蘆名氏」といった主な大名が「信長」に恭順する姿勢を見せています。「反信長勢力」は、「上杉景勝」が率いる「上杉氏」のみとなっています。

 

 西方は、「中国地方」では「毛利氏」、「四国地方」では「長曽我部氏」が、「信長」への帰順を拒否していますが、「九州地方」では「大友氏」「島津氏」等と友好関係にあります。このため、既に「毛利氏」「長曽我部氏」攻略に動いています。

 

 これらのことから、「信長」の「天下統一」は、もはや夢物語ではなく、「信長」の強大な勢力をもって、「反信長」を掲げる勢力を一つ一つつぶしていけば、現実として可能になってきました。日本全国の各勢力も、客観的に見て、そう見ざるを得ない状況に思えます・・・この現実を見据え、各々の勢力は対応を模索していることでしょう。

 

    ⦅「信長像」⦆・・・岐阜駅前

 

 

    ⦅「信長像」⦆・・・西洋の甲冑を装着

 

 

    ⦅「信長像」の説明板 ⦆

 

 

 では、「本能寺の変」直前の「外部勢力」の状況はどうなっていたのでしょう・・・私見は・・・。

1) 正親町天皇

 「信長」から、退位して「誠仁親王」への譲位を迫られていました。「正親町天皇」がなかなか了承しないので、「信長」は「馬揃え」などで武力を誇示して、半ば脅しをかけているようにも見えます。「朝廷」は、「信長」をなだめるかのように、「三職(太政大臣か関白か征夷大将軍)推任」を打診したりしています・・・「信長」が「朝廷」にまでも牙をむいてきたかと脅威を感じていることでしょう。

 

2) 近衛前久

 「先久」は五摂家の筆頭という名家に生まれ、「太政大臣」にまでなっていました。ところが、「信長」が「足利義昭」を奉じて上洛した時、当時「関白」の「前久」は、「足利義輝」の暗殺に関与していたとして「義昭」に追放されています。このため、地方放浪をすることに・・・一時は「信長包囲網」に参加したことも・・・しかし、追放した「義昭」とその後の「関白 二条晴良」を恨んでいたようで、「義昭」が「信長」に追放されると、「信長包囲網」から離脱します。

 以後「信長」と親交を結び、「太政大臣」にもなっています。「信長」の意を受け、「九州の大大名」間の和義、「石山本願寺」の和解に尽力しています・・・「信長」とは、親しいようですが、「太政大臣」としては、「正親町天皇」「朝廷」を守る職務があり、「信長」のやんちゃにこまっていたかも。

 

3) 征夷大将軍 足利義昭

 「義昭」は「信長」に追放された後、「紀伊国」に移り、諸国の大名に手紙を送り、「信長包囲網」の構築を図ります。「武田勝頼」が「長篠の戦い」で敗れると、「毛利氏」を頼ります。そして、「石山本願寺」「毛利氏」「上杉氏」を主力にした「第三次信長包囲網」の構築に尽力します・・・しかし、「謙信の死」「丹波平定」「石山本願寺の和解」「武田氏の滅亡」などで瓦解し始めました・・・しかし、諦めず「反信長」を画策していたことでしょう。

 

4) 仏教勢力

 「比叡山延暦寺」「石山本願寺」など、「信長」の武力で敗北は喫したものの、当時の社会を動かす知識階級であり、多くの人々の尊敬を集めている存在です。けして、屈したとは思ってないでしょう・・・やがて、将来「信長」が苦境に立った時、降ってわいたように反旗を挙げようとするでしょう・・・また、その機会を待っていることでしょう・・・特に、「本願寺」の「顕如」も「教如」も、地方にいても、全国の「一向一揆」を動かす力は温存しているかも。

 

5) キリスト教勢力

 「宣教師」たちが、「九州の大大名」「信長」などに取り入って少しずつ布教し、信者を増やしてきました。そして、名高い武将も「キリスト教」に入信しています。

 「信長」は、「西洋」の情報、戦略物資を得ること、また「仏教勢力」の力を削ぐため、「キリスト教」と手を結んでいたよう。「宣教師」達も「信長」に「仏教勢力」を叩かさせるため、「キリスタン大名」を説得し「信長」に協力させています。

 だか、「信長」の天下統一が近づいた時、「日本の植民地化」の障害となると考え始めてないだろうか・・・合理主義の「信長」に「天下統一」されるより、「諸勢力」が乱立していた方が、「日本の植民地化」はやりやすいと考えてはいなかっただろうか。

 

6) フェリペ2世

 「信長」の時代、「スペイン」は「フェリペ2世」でした。「ポルトガル王」を兼務したため、「スペイン」は「日の沈むことのない帝国」となっています。

 すでに、「フィリピン」は「スペイン」の植民地になっていました。「フェリペ2世」は「中南米」を植民地化した手法で、日本も植民地にすべく「イエスズ会」に指示していた資料も出てきたとか・・・「東アジア」に展開している「スペイン勢力」のみでの「日本の植民地化」は、強大になった「信長」は障害だったのでは・・・?

 

5) 毛利輝元

 「毛利氏」は、「第三次信長包囲網」に加わっており、「足利義昭」を匿っていることもあり、「信長」とは、全面対決するしかない位置付けです。「秀吉」を総大将とする「織田軍」が、領国の「備中」に侵攻しており、「備中高松城」の救援のため、「輝元」を始めとする「毛利三家」が出陣して、「秀吉」と対峙してするところです・・・さらに、「信長」本隊も中国へ出陣する情報もあり、「信長」との直接対決しなければならない状態です。

 

6) 長宗我部元親

 「元親」は「信長」とは良好な関係でしたが、「織田氏」と「毛利氏」との両者とも協力関係を保とうとしていたため、「信長」は激怒。このため、「信長」とは、対立関係に陥っていました。「織田信孝」を総大将に「四国討伐軍」が派遣される寸前です・・・なんとか、「討伐軍」の侵攻を阻止したいと思っていたことでしょう。

 

6) 大伴宗麟・義統

 海外交易で得た財力を基に「北九州」支配しています。「キリスト教」に入信し「キリシタン大名」となっていました。しかし、「南九州」の「島津氏」が侵攻してきて苦戦を強いられ、「大友氏」は「信長」に和解の調停を依頼します。結果、「近衛前久」の努力もあり、和議が成立します。このため、親信長派となって「信長」の「毛利攻め」に協力する意思を示します。また、息子の「義統」に、「毛利氏」の領国「長門」「周防」を与えるという朱印状をもらっています・・・「信長」としては、「毛利氏」を挟撃するために都合がいいと考えているよう。

 

7) 島津義久

 「島津氏」は九州最大の戦国武将。「島津義久」は強力な家臣団を持ち「九州統一」を狙っています。ところが、「信長」が「毛利氏」攻撃に「大友氏」を参戦させるため、「大友氏」と敵対している「島津氏」を和睦させようと、「島津氏」と「信長」との間で交渉が開始されます。

朝廷」の「近衛前久」の努力もあり、最終的に「義久」は「信長」を「上様」と認めて「大友氏」との和睦を受諾します。さらに、「信長」の「毛利攻め」に参陣する計画も立てていたとのことです・・・しかし、「善久」の「九州統一」の野望は消えてないと思えますし、「長曽我部氏」のように、その内に「信長」の攻撃の対象になるという危うさは、理解していると思います。

 

8) 上杉景勝

 「上杉謙信」の死後、相続争いをした後、「上杉家の当主」になり「越後」を治めます。しかし、相続争いの内紛により「上杉家」は弱体化していました。

 そこに、「柴田勝家」率いる「信長の北陸方面軍」が侵攻してきて戦いになります。しかし、後ろ盾の「武田氏」が滅亡したため、「上杉氏」も滅亡の危機に瀕していました・・・「景勝」は玉砕覚悟で、「信長」に対決しようとしてとのことです。

 

 

【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】

 「本能寺の変」は「明知光秀」の本当に単独行動だっただろうか?・・・と私は疑問に思っています・・・上述のように、「各外部勢力」の状況と思惑をまとめてみました。思惑に関しては、失礼ながら、私の私見を記入してしまいました・・・歴史的資料は残されていないでしょうが、こう考えないとおかしいと思い推測してみました・・・自分勝手ですみません。

 

 しかし、上記から分かるように、いかに、「信長」の支配を良しと思わない人が多いことか・・・そうであるなら、「明知光秀」は誰と結んでことを起こそうとしていてもおかしくないのでは?誰かと密約してことを起こしたとは考えられないだろうか・・・?

 

 

( 注記 )

 ※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味のある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]

 

         ・・・次回は「本能寺の変Ⅱ」>・・・「直前の状況Ⅱ」