<「戦国時代の主役“徳川家康”(5)」・・・「嫡男「松平信康」の切腹」>
「上杉謙信」の死後の「上杉家」では家督相続で内輪もめが起こります。周辺の大名も各々に支援をしますが、結果、「武田氏」と「後北条氏」「徳川氏」との対立が生まれます。「武田氏」と「後北条氏」は同盟を破棄し、変わって「後北条氏」と「徳川氏」が同盟を組み、「武田勝頼」率いる「武田氏」と対峙します。そして、「徳川家康」は、「武田氏」に侵攻された領地の奪還を目指しています。
ところが、突如として「信長」から「家康」の「正室・築山殿」と「嫡男・松平信康」に対して「武田氏」への内通疑惑がかけられます。「家康」は「酒井忠次」を使者として「信長」と談判させますが、「信長」からの詰問を「忠次」は概ね認めたために、「信康」の切腹が通達されます。「家康」は熟慮の末、「信長」との同盟関係維持を優先し、「築山殿」を殺害し、「信康」を切腹させたという事件が起こりました。
<「二俣城」>
・・・「家康」の命により、「嫡男・松平信康」は、この「二俣城」に幽閉され、
切腹させられます
⦅「二俣城祉」⦆
⦅「二俣城祉」の説明板 ⦆
⦅「二俣城祉」への登り口 ⦆
<「若宮八幡社」>
・・・「松平信康」はこの「若宮発満宮」(尾張 名古屋)に祀られているとか
⦅「若宮八幡社」の鳥居 ⦆
⦅「若宮八幡社」の石柱 ⦆
⦅「若宮八幡社」の拝殿 ⦆
【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】
「信康の切腹」の理由ついては「三河物語」が通説になっているそうです。「「信康」は「織田信長」の娘である「徳姫」を正室に迎えていますが、「今川氏」の血を引く姑の「築山殿」との折り合いが悪く、「信康」とも不和になったとのこと。「徳姫」は父「信長」に対して12箇条の手紙を書き、使者として徳川家の重臣「酒井忠次」に託したとあります。「手紙には「信康」と不仲であること、「築山殿」は「武田勝頼」と内通した」と記されていたとされます。使者の「忠次」は「信康」をかばうことなくすべてを事実と認めたされます。この結果、「信長」は「家康」に「信康」の切腹を要求し、「家康」はやむをえず「信康」の処断を決断した」とあります。
これから、考えると「嫁と姑」との争いが原因となり、夫の「信康」が「母」についたとの構図ですね。確かに「築山殿」は、実家当主の「今川義元」を下した「信長」には恨みがあったのかも・・・その娘には怒りすら感じていたとも考えられます。
また、「徳姫」も「信長似」で気が強く、「信長」という後ろ盾があるので、横柄にしていたのかも・・・そうであるなら・・・この二人の間におかれた「信康」はやりきれなかったかもしれませんね。
しかし、「家康」の使者でもある「後の徳川四天王となる坂井忠次」が、「信康」を庇わず、「徳姫」の言ったことを認めたというのは解せませんね・・・「徳川氏」を安泰にするため、先ずは必死で庇うはず・・・ところが、「徳川氏」にとって、「信康」も、「築山殿」も、「徳姫」も災いを生み出す元凶と思っていたとは考えられないだろうか。三人がいなければ、「徳川氏」に対する「今川氏」「武田氏」「織田氏」の干渉を軽減できるのでは?・・・将来の「徳川氏」の災いの種を無くせるし、まだまだ、「織田氏」との同盟は有効であり、それを利用できます・・・一石二鳥の対応と判断したのでは・・・しかし、これは、私の推理です・・・実際はどうだったのだろうか・・・?
( 注記 )
※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、
この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味の
ある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]
・・・次回は「鉄甲船」





