<「戦国時代の主役“織田信長”(114)」・・・「将軍足利義昭の挙兵Ⅴ」>
・・・「義昭追放」
「反信長」を掲げ再挙兵した「将軍 義昭」は、「槙島城の戦い」で、「信長」に短期間で敗れ、嫡男の「義尋」を人質として差し出して降伏します。
「信長」は、敗者である「義昭」を、殺害したり、将軍であるその地位を剥奪したりはしなかったようです。「信長」は、「怨には恩をもって報ず」として、「羽柴秀吉」を警護に、妹婿である「三好義継」の居城・河内国「若江城」まで送り届けさせます・・・「信長」は「将軍殺し」の汚名を着ることを嫌ったなどの説があるらしいです。
<「若江城」>
・・・「若江城」は「三好氏」本家筋であり「義昭」の妹婿である「三好義継」の居城でした。
「義昭」は「羽柴秀吉」の警護で送り届けられます。
(オンライン画像より)
現在の歴史学では、これにより、「室町幕府」は実質的に滅亡したと解釈されることが多いです。しかし「義昭」自身はなおも「征夷大将軍」の地位にあり、「従三位」の位階すらも保ったままであることは事実です。
この後、時はたちますが、「信長」は「三好義継」の「若江城」を攻めます。そして「三好義継」は討たれたため、「義昭」は僅かな近臣と共に「堺」、次いで「紀伊」へと流浪・亡命し、後に「毛利輝元」を頼って「備後鞆(鞆幕府)」にまで落ち延びることとなります。
「義昭」退去後、「信長」は「槙島城」に「細川昭元」を置き、自らはそのまま南方に出勢して諸所を焼き払い、京都へ戻ります。そして、「叡山」の麓の「一乗寺」や「静原山」にいる「義昭」に味方し、「信長」に対抗していた勢力も滅ぼします。
「信長公記」には、「信長」は今度の上京焼き討ちで町人が迷惑をこうむったことを考慮し、彼らへの地子銭および諸役の取り立てを猶予した。このため町の復興は早まり、まもなくして町々は焼き討ち前の様子に戻った。とあります。
【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】
「将軍 義昭」は、「信長」に敗れます。「信長」は「義昭」を追放という形にします。「三好氏」が、クーデターを起こし「将軍 足利義輝」を自害に追い込んだため、「将軍殺し」の汚名を受け、結果、「義昭」「信長」の上洛戦が発生したことの、繰り返しを避けたように思います・・・この説が有力とか。
しかし、本文のように「義昭」は「征夷大将軍」のままであり、「室町幕府」は滅んでいるわけではないことは明らかです・・・確かに「室町幕府」は実質的に機能停止していますが、「征夷大将軍」として、全国に激を飛ばすことは可能です・・・まだまだ、「武田氏」「上杉氏」「北条氏」「朝倉氏」「毛利氏」「島津氏」など有力大名が混在している以上は、「反信長勢力」を再構築することは可能です・・・そして、「信長」を滅ぼせば、「室町幕府」再興も可能になる訳ですから、しつこく頑張ることでしょう。
一説には、「本能寺の変」も、黒幕の一人に「義昭」がいるとの説がありますが、あながち、否定は出来ないような気がします。
( 注記 )
※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、
この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味の
ある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]
・・・次回は「「木戸城」「田中城」の戦い」
