<「戦国時代の主役“織田信長”(96)」・・・「伊勢侵攻Ⅴ:第一次長島侵攻」>
「信長」は、浅井方の「佐和山城」を調略して織田方につけ、また、「木下藤吉郎」の活躍で、「箕浦」にて浅井軍を破り退却させたことにより、南近江の回廊は「織田方」が一応確保したように思えます。
「信長」は、「顕如の信長包囲網」寸断のための次のターゲットは、「長島一向一揆」でした。「石山本願寺」と連動して蜂起した「願証寺」門徒は、「信長」が「志賀」に釘付けに勝っている間、「信長方」の城を攻撃し陥落させ、弟「信興」を自決させています・・・これにより、この地域に「一向一揆」の一大勢力が出来ました・・・脅威に感じた「信長」は早々に潰そうとしたのと共に、近くの「尾張」領の「小木江城」を攻撃され、弟「信興」が自害に追い込まれたことへの復讐戦でもありました。
⦅ 現在の「願証寺」⦆ ・・・田んぼの真ん中にありました
⦅ 現在の「願証寺」⦆
⦅ 「願証寺」への道 ⦆
⦅ 「願証寺」の入口 ⦆ ・・・右の建物は「物見櫓でしょうかね?
⦅ 「願証寺」の石柱 ⦆
⦅ 「願証寺」の寺門 ⦆
⦅ 「願証寺」の本堂 ⦆
「信長」は5万の兵を率いて「伊勢」に出陣します。「織田軍」は周辺の村々に放火した後、ひとまず軍を退こうとしました。
ところが、これを見た「一揆勢」は山中に移動し、「織田軍」撤退の途中の道が狭い箇所に弓兵・鉄砲兵を配備して待ちうけます。「信長本隊」と「佐久間軍」はすぐに兵を退くことが出来ましたが、殿の「柴田軍」が大打撃を受けます・・・この戦いは「信長方」の敗戦と言ってもいいぐらいの損害でした。
「長島一向一揆」は、それまでの「一揆」と違い、統制がとれ、軍事的な作戦行動も取れるほどの組織であったようです。また、「桑名方面」から海路を使って「人員」や「物資」が補給されており、海運をも握る強力な勢力に育っていたことになります・・・「信長」は、慎重に対応せざるを得ないことになりましたね。
【 「季節の旅人」の“探検日誌” 】
この戦い(「第一次長島一向一揆との戦い」)は、「信長」の敗戦と言っていいほどの打撃を受けています。「長島一向一揆」は、「石山本願寺」からも戦闘に携わる坊官を招かれていて、かなり統率がとれた軍事集団となっていたようですね。しかも、命が惜しくない宗教集団なので、個々の戦闘でも、戦いにくい面があったとのこと。
また、「長島」の地形からして、海が巨大な外堀化している訳ですから、地上戦に慣れた「織田軍」も、今までの戦術が通用しにくいことになります・・・後に、「水軍」の力を借るまでは、苦戦が続きます。
( 注記 )
※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、
この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味の
ある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]
・・・次回は「志村城の戦い」






