<「足利義昭」が仮居所とした“本国寺”は、現在「山科」に移っていました >
気候も暖かくなり、日差しも「春」らしくなって来たこの頃、少しずつ「歴史の散策」を始めたいとの気分になって来ました。そこで、ぶらぶらと「京」へ足を延ばしてみましたよ。
「歴史の探検」は、現在、「信長」の「尾張統一」「美濃侵攻」の時点をアップしていますが、「歴史の散策」は先行して訪問する必要があり、現在は「信長」の「足利義昭」を奉じての「上洛戦」の段階にあります。「京」に来たので、「上洛」を果たし、時の権力者「三好氏」を「京」から追い出した「信長」の足跡を順次訪問しようと思います。「京」に入った「信長」は、「足利義昭」を「清水寺」におき、自身は、前面にある「長福寺」に本陣をおきます。その後、畿内がほぼ平定されると、「義昭」は「京」の「六条堀川」にあった“本国寺”を仮居所(御所)にします。
「足利義昭」が「御所」とした「六条堀川」にあったとされる“六条本圀寺”は、現在の「西本願寺」の北にあったとのこと。現在は「石柱」があるのみとのことなので、別途訪れることとして、今回は、「山科」に移った 現在の“本圀寺”をアップします。
“本圀寺”は・・・「ウィキペディア」で調べると・・・「寺伝によれば「日蓮」が「鎌倉松葉ヶ谷」に建立した「法華堂」が“本国寺(後の本圀寺)”の起源と伝える。“本国寺”はその後、「鎌倉」から「京都」へ移り、「4世日静」は「光明天皇」より寺地を賜り、「六条堀川」に移転した。
“本国寺”は「織田信長」の支持によって上洛を果たした「足利義昭」の「仮居所(六条御所)」となる。「信長」が岐阜に帰ると、「三好三人衆」により、“本国寺”の「足利義昭」が襲撃される事件(「本圀寺の変」)が発生した。“本国寺”はなんとか損傷を免れたものの、「信長」は“本国寺”の一部の建物を解体して「二条城」建築に用いることを決める。“本国寺”の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は「二条城」に運ばれて再組み立てされた。
江戸時代になって、「徳川光圀」が“本国寺”にて生母「久昌院」の追善供養を行い、「光圀」から「圀」の一字を下され、“本圀寺”と改称した。昭和時代になって、“本圀寺”は「六条堀川」から京都市郊外の東山区山科(現・山科区)へ移転した」とのことです。
行ってみると、山を背にした清閑な地にありました。奥の山々は「比叡山」か、「大文字山」なのでしょうか・・・「上洛戦」の当時、ここに“本国寺”があれば、防衛しやすい格好の「御所」になったのではと思えました。しかし、政治を司るには、「洛中」の方がいいでしょうし、「京都御所」にも近い位置の必要性もあって、当時の「六条本国寺」が選ばれたのでしょうね。しかし、「三好三人衆」の逆襲で、「六条本国寺」が攻められた時(「本国寺の乱」)は、「足利義昭」も肝を冷やしたことでしょう。「六条本国寺」は、現在の「西本願寺」付近にあった訳で、まったくの平地にあり、周りも開けていて、囲みやすかったのでは・・・現在「石柱」だけらしいですが、「六条本国寺」跡も訪れるつもりです。
《 参道に“本圀寺”の石柱があります 》

《“大本山 本圀寺”の石柱 》

《 参道から見る「寺門」と「鐘楼」》

《“山科本圀寺”の説明板 》

《「寺門」をくぐり、境内に入って行きます 》

《 更に、この門をくぐり、「本堂」へ 》

《“本圀寺”の本堂 》

《「本堂」から見る「講堂」の風景 》

《“本圀寺”の講堂 》

《「講堂」から見る「本堂」の風景 》
