歴史の探検《 “戦国時代”(11) 》 | 季節の旅人のブログ

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「探検地遠望」・・・時流の変化:「建武の新政」>

 
 さて、「後醍醐天皇」の念願の「親政」に戻せたわけですが、しかし、苦難の舵取りになったようです。「公家」を優遇し過ぎ、「武家」の不満が募り、「足利尊氏」への支持がひろがっていくわけです・・・しかし、考えてみれば、「武家政権」により、それまでに持っていた「公家」の利権が大幅に浸食されていたわけで、それを取り戻すためには、「武家」の利権を縮小しなければならなくなったのは当たり前ですね・・・ここから、「朝廷」と「武家」との対立が始まり、「南北朝時代」に至る訳ですが・・・。
 
 「後醍醐天皇」の「親政」を「建武の新政」といいますが、何故、短期間で終わったのか・・・「武士の本質」と関係ありそうですね。

1.  新政府の始動時の問題
  • 恩賞」は、「公家」と、「新田義貞」「足利尊氏」「楠木正成」などの一部の「武士」に手厚く、他の「武士」達は、逆に所領を狭められる等、不公平さに武家勢力」に不満が残った
  • 「新政府」は矢継ぎ早に政策が出される。その中で、「旧領回復令」「寺領没収令」「朝敵所領没収令」「誤判再審令」などでは、既得の土地所有権は一旦無効にされ、天皇の裁断により決められるということになる。しかし、その裁断がうまく機能しない・・・特に、御成敗式目」で認められていた「所領」の安堵に不安な「武家勢力」に反感をかった
  • 律令制の延長の「国司」を地方支配の柱として強化したが、“守護”は軍事指揮権を扱う役職として残された。従って、“守護”の地方で影響力は残されている。
  • 「御醍醐天皇」は大覚寺統の傍流の出身であり、「中継ぎ」を前提とした即位であったために、不安定な立場であり、「朝廷」内部の基盤は弱く、さらに、「大覚寺統嫡流」「持明院統」などと争う必要もあった。
  • 「新政府」では、従来の「公家主流派」が排除されたため、主流派にも、反感を持たれた
  • 尊氏」も「親政府」での役職につかず、「朝廷」との距離をおいている・・・これは、「朝廷」の「尊氏」敬遠策なのか、将来を見据えた「尊氏」自身の考えだったのか分からないようだ・・・世の人々は、これを「尊氏なし」と言った。
  • 「鎌倉幕府」に共に戦った「護良親王」は、「足利氏」の勢力に危機感を感じ、対立するようになる。
 
2.  「武士」の反感

王政復古」させようとすると、「武士」を抑える必要があり、「後醍醐天皇」の「独裁制」は「公家」にも反感をかうことになって、行き詰って行きます。特に、「武士の反感」が大きくなっていく訳ですが、私には、それが「武士の本質」にあると思えます。
  • 御恩と奉公」は従来、「武士」の行動規範の原点。極端に言えば、「御恩」がなければ、「奉公」はしないということにもなるのでは・・・。従って、「鎌倉幕府」と戦って勝利を得た「武士」たちは、「恩賞」をもらえると思ったら、もらえず、逆に、「所領」も安堵しないことになると、大いなる不満をいだく訳です。
  • 「旧領回復令」などで、「御成敗式目」で安堵されていた「武士の所領」の所有権は一旦無効にされるということになりました。「所領」は「武士」にとって命です。「御成敗式目」では、御家人としての義務を果たさないものに対しては所領の没収などの措置を取る事を規定しています。従って、「所領の没収」は「武士」に対する最大の威嚇・統制手段として機能していたのです。だから、「没収」されるとなると最大級の反発となると思います。
3.  新政府の崩壊

武士」の不満は、やがて、「足利尊氏」を支持に向かい、“建武の新政”は崩壊し、「尊氏」が後ろ盾となる「北朝」が成立し、「室町幕府」も成立するわけです。その状況は・・・。
  • まだ、地方には「北条氏」の残党はおり、旧守護国を中心に反乱を起こしていた。そして、信濃国の「北条時行」が関東支配の要「鎌倉将軍府」を占領する「中先代の乱」が起こる。
     
    これを鎮圧するため、朝廷の許しを得ずに向かい、乱を鎮圧するが、「御醍醐天皇  の帰京命令を拒否し、「鎌倉」にとどまり、独自に「恩賞」を与えるなど、「新政府」から離脱していく。これにより、「朝廷」との関係が悪化する。

  • 後醍醐天皇」は、「新田義貞」に「尊氏」討伐を命じ出陣させるが、「箱根竹ノ下の戦い」で敗れてしまう。
  • 逆に「尊氏」は、軍を率いて上京する。「後醍醐天皇」は比叡山に逃れる。「陸奥将軍府」の「北畠顕家」が下向し、「新田義貞」と合流し、反抗し、「尊氏」を破り、九州へおいやることになる。
  • 尊氏」は、九州の「武家」の支持を得て、勢力を盛り返し、さらに、「後醍醐天皇」と対立している持明院統の「光厳上皇」の院宣を得て、再び、上京し「湊川の戦い」において「楠木正成」ら宮方を撃破し、京都を制圧した・・・「建武の新政」は崩壊してしまう。
  • 尊氏」は「光厳上皇」の弟の「光明天皇」を即位させる(北朝)。その後、「尊氏」は「征夷大将軍」に任じられ、名実ともに「室町幕府」を開くことになる。
  • 後醍醐天皇」は、京を脱し、「吉野」に逃れ、独自の「朝廷」を立ち上げる(南朝)
  • その後、60年近く、「京都の朝廷(北朝)と「吉野朝廷(南朝)が対立する「南北朝時代が続くことになる。

( 注記 )

 ※「浅学」のため、「間違い」や、「ピント外れ」が多いかと思いますが、温かい目で、
この「探検記」をお見守り下さい・・・「間違い」は都度修正していきますが、興味のある方は、自分で専門書物を調べて下さいね。[出典:ウィキペディア、ニッポニカなど]



                 ・・・次回は「時流変化:南北朝時代」



              《 後醍醐天皇 》

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