五井先生の著書『聖なる世界へ』(1976年初版)の中に
「愛について」という題でお書きになった小論があります。

その抜粋を数回に分けてご紹介しています。

今日は、その2回目「牢獄からの脱出」です。

 

※本文中の太字・色文字はAKIによるものです。

 

 

 

 

 「牢獄からの脱出」

 

 

 

これを私流に易しくいいますと、人間は本来、神の分生命(わけいのち)であり、霊そのものであって、肉体人間が真実の人間ではない。神の分生命の働きが、今仮りに肉体人間という、三次元的現れをしているのであって、それは単なる現れにすぎないので、その現れの形の世界にのみ把われていては、神の分生命の本来の働きが出来なくなる。だから常に、祈り心をもって、生命の本源である神の世界に自己の想念行為を置くようにしなければ、肉体世界という狭い、低い次元の世界に把われてしまって、神の分生命である本来性を忘れてしまい、ついには神のみ心の軌道を外れて、滅亡してしまうのである、ということなのであります。


しかし、なかなか肉体人間観を脱却することがむずかしいのです。仏教でいくら空(くう)になれと説いても、老子の無為の道を説かれても、それはいつも肉体人間の意識として聴いているのでありまして、肉体意識を超えた霊性の意識を、この現象面に発現させるような聴き方をしないのであります。


人はみな一つの根源から生まれ、すべて兄弟姉妹である、という神の世界、霊性の世界の真理が、肉体人間観のままでいては、いつまでもわかってこないのです。そこで、自己の身近な者か、自己になんらかの利益をもたらす者しか愛せないようになり、そうした執着にふり廻されて一生を終わってしまうのであります。


肉体人間のみが人間である、という迷信を捨て去らねば、人類の進化はここで止まってしまって、地球人類は滅亡するより仕方がないのです。その土壇場に現在の地球人類の運命は来ているのです。しかし、こうして眼に見え、手に触れる人間というものは、肉体の形をした人間でありまして、心というものは、その肉体の内部器官から生まれてきている、というように一般では考えられておりますので、どうしても肉体が人間だという意識を捨てきるのが大変なのです。


それは科学者であるアインシュタイン博士もいうように、時間と空間の枠にとじこめられている意識想念の幻想なのであります。釈尊はこれを転倒夢想している、と説いているのであります。といわれましても、やはり肉体人間が自分だという想いが消えることは、容易なことではありません。

 

 

 

つづく…