五井先生の著書『聖なる世界へ』(1976年初版)の中に
「愛について」という題でお書きになった小論があります。

とてもとても深い内容ですので

その抜粋を数回に分けてご紹介したいと思います。
 

 

 

 

 「アインシュタインの思想」

 

        アルベルト・アインシュタイン

 

 

愛については、私も何度びか書いておりますが、愛の行為の実例をあげながら、また書いてみたいと思います。これは直接、愛について書かれたものではありませんが、真の愛は、こういう境地になることによって生まれるものだ、という意味のアインシュタインの言葉が、1972年4月29日にニューヨークタイムズ紙に載っており、在米同志の高木俊介博士が日本文に訳して、私に送ってきましたので、その文をこの小論の最初に掲載してみます。


「人間は宇宙と呼ばれる全体を構成する一部であるが、時間と空間の枠にとじこめられているために、独立した自分が考えたり、感じたりするものと理解する。この理解は想念に生じた一種の幻像であって、我々の意識に対して牢獄のような作用をし、我々を自分の欲していることにのみ気を配ったり、身近の人々にのみ愛情をそそぐようにしてしまう。我々の使命は自分の意識をこの牢獄から解放し、すべての生物やすべての自然をあるがままの美しさで抱擁するまでに、自分の愛念の及ぶ範囲を拡げることである。これは非常に難しい仕事で、誰にも成就できないが、その努力は自分を解放する道を歩むことであり、心の落ち着きを培うことである」(下線筆者)


これがアインシュタイン博士の言葉ですが、実に真理を悟った言葉であり、まったく同感の至です。アインシュタインは科学者としての第一人者でもあり、人間としても地球人として最高級の人だと思われます。


私が常に、人間が自分自分と自分を主張している、その自分というものは、頭脳を駆けめぐっている想念意識であって、真実の自分ではない、単なる消えてゆく姿なのだ、真実の自己というものは、奥の奥の世界、神のみ心の中にあるのだ、といっているのと全く同じ発想であるのです。


神のみ心である宇宙的な境地に立たない愛ですと、その愛は執着を生じたり、他に対する不調和をまねいたりしまして、自己を愛し、自己の身近な者を愛することによってかえって、自己を執着という牢獄へ閉じ込めてしまうことになります。


宇宙意識から、自己を小さく区切って考えた範疇で行じられる愛行為では、宇宙意識、つまり、神の大いなる意識から外れてしまっている場合があるのです。ですから、そうした愛行為ですと、他との争いを起こしたり、良心的な苦痛を味わったりするのです。宇宙意識を外れた個我と個我の愛情は、宇宙意識の大調和の運行の外にあるので、自分たちだけの瞬間的な喜びでありまして、次の瞬間には別離の悲しみとなってきます。


私がアインシュタインの言葉に下線をつけたところは、仏教の奥義に通ずるものであります。時間と空間という三次元、或いは時間を一次元と考えた四次元の、つまり肉体という形のある世界に住んでいますと、形の上で独立した自分を考えます。そして自分の考え、自分の行為というように、真実の自己を想念で縛ってゆくのであります。


肉体という限定された形の上での、自他の想念意識で縛られた状態は、不自由そのもので、さながら牢獄につながれた如き状態です。アインシュタインにいわせると、こうした時間空間的な把われの中での自己意識は、一種の幻想で、本来は宇宙生命の自由自在な働きをしている存在者であるべき真実の自己が、そういう幻想的意識を持つと、肉体的な身近な人々にのみ愛をそそぎ、人類全般、生命全般にそそぐべき、宇宙意識的愛行為が出来なくなってしまうことになる、というのです。

 

 

 

つづく…