今日は、五井先生のお言葉をご紹介しますね。

こちらです。


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人間の悲劇は自分を赦さぬところから生じているといっても過言ではありません。

それは今迄の宗教観念が、誤ちをおかしてはならぬ、戒は守らなければならぬ、というようになっており、現今の新しい説き方の中にもやはり、こうした不幸はこうした心の現れである、というように説かれているので、常に自己の誤った心を探し歩き、誤まるまい、間違うまいと、戦々恐々として自分の心をいじめているのです。

これでは小さな人間をつくりあげてしまって、大事を成す人間になり得ません。

誤ちは真の人間がするのではなく、業因縁的想念が表面に現われた時にするのです。

誤りとして表面に現われれば、その業因縁はそれだけ消えたことになるのだから、これで消え去ったのだとすっぱり自分を赦してしまうのです。


『日々の祈り』 五井昌久著より

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なんという愛の教えなんでしょう。

なんという赦しの教えなんでしょう。


過ち、誤りというものは、本当の私達がするのではなくて、

業因縁的想念が表面に現れた時にするのだから
誤りとして表面に現れれば、その業因縁はそれだけ消えたことになるのだから
これで消え去ったのだとすっぱり自分を赦してしまうのです…

 

 

すべては業因縁的想念が現れては消えてゆく姿だとおっしゃってくださっている。

 

誰も責めることがないんです。

 

これで消え去ったのだと赦すのですと教えてくださっている。

 

五井先生の教えって、愛の赦しの教えだと私は思っています。

 

 

 

不幸はこうした心の現れであるとして、常に自己の誤った心を探し歩き、誤まるまい、間違うまいと、戦々恐々として自分の心をいじめているのです…

 

 

この世界は心の現れだから、心の中の誤りを見つけ出して、その心を正せ…とは五井先生はおっしゃらないんです。

 

 

 

スピリチュアル界では、よくこの世界は心が投影された世界だと言われています。

 

そして、より良い世界を投影するために、心の中に誤りを見つけ出して、その心を変えようとするアプローチが少なくないように思います。

 

でも、五井先生は心を変えろとはおっしゃらない。

 

すべては業因縁的想念が現れては消えてゆく姿だとおっしゃってくださっている。

 

これで消え去ったのだと赦すのですと教えてくださっている。

 

そうすると、そこに神さまのみ心が自ずと現れてくる。

 

そして、私たちの本来の姿、神の子としての姿が、自ずと現れてくるのだとおっしゃってくださっていると思うのです。

 

 

私はそんな五井先生の教えが大好きです。


本当に神さまのみ心そのものの赦しの教えだと、私は思っています。


だから私は ACIM(奇跡講座・奇跡のコース)の赦しの教えも大好きになったんですね。

 

 

 

今日も読んでくださってありがとう。

素敵な一日を♪


奇跡の祈りの処方せん
AKI
 

 

 

 

 

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