戦後70年、北海道と戦争<第11章・民族> 日本兵になったウイルタ
1>樺太スパイ戦に投入
(北海道新聞)
 
うっそうとした針葉樹林が10メートル幅で延々と伐採され、鉄条網で閉ざされている。樺太(現サハリン)を日本領と旧ソ連領に分けた北緯50度線だ。
 
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■国境の道案内
1943年(昭和18年)夏。ここを目指し、4、5人の 憲兵隊員が黙々と歩いていた。与えられた任務は日ソ国境の警備。案内役として一行を先導したのは現地の先住民族だった。
 
憲兵隊下士官だった佐々木保治(95)=日高管内日高町=は「足がめり込むような湿地帯も歩いた。先住民族がいなかったら一里(約4キロ)も進めなかったろう。ソ連軍も案内役にしていたはずだ」と話す。
 
05年(明治38年)、南樺太は日露戦争後のポーツマス条約で日本に割譲された。だが、日本軍はソ連軍の侵攻を警戒し、兵力を配備。さらにソ連軍の動向を探るため、国境の南約60キロにある敷香(しすか)(現ポロナイスク)に樺太敷香陸軍特務機関を置き、陸軍中野学校出身のエリートを集めた。
 
■民間人を装い
情報収集の先兵として駆り出されたのが、ウイルタやニブフら樺太の先住民族だった。ウイルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)も、その一人。42年に18歳で日本から「召集令状」を受け取った。
 
特務機関は北樺太からソ連の軍人や住民を誘い出し、抱き込む作戦に出た。ゲンダーヌらは民間人を装って国境付近に潜伏。日本の豊富な物資と自由をビラなどで宣伝した。さらに境界の標柱には、たばこ、チョコレート、砂糖、果ては女性の裸の写真まで置いて、ソ連兵らを引き込んだ。
 
これらの工作が奏功し、数百人のソ連人が国境を越えてやって来た。特務機関は敷香近郊に集落をつくり、物資の配給を日本人よりも優遇。ソ連軍の動向をめぐる情報を入手し国境外での活動に生かした。ソ連軍の電話の盗聴に成功し、部隊の動きを的確につかんだ。熾烈(しれつ)な諜報戦。樺太は「スパイ合戦の島」と呼ばれたという。
 
「国境地帯では夜の暗闇の中、四百メートル前方にマンドリン銃を肩からつるしたソ連兵が行き来し、かすかな音に緊張した」。今年3月に亡くなったユジノサハリンスク教育大元講師田中了は、ゲンダーヌから聞き取った任務の様子を著書にこう書き残している。
 
45年8月9日、ソ連が参戦。ゲンダーヌは樺太でソ連軍に日本兵として捕らえられた。その後、シベリアに9年以上も抑留され、日本に戻った後も屈辱的な扱いを受けた。戸籍上は84年に60歳で亡くなったことになっているが、ウイルタにはもともと出生時に戸籍がつくられなかったことから正確な年齢は分からない。
 
2015年4月29日、兵庫県神戸護国神社(神戸市)の「北方異民族慰霊之碑」の前で、太平洋戦争で命を落とした少数民族を悼む慰霊祭が行われた。
 
碑は、ウイルタの日本兵らを率いた2代目敷香特務機関長の扇貞雄が75年に建立した。扇の次男、進次郎(68)=兵庫県=は慰霊碑の前で、77年ごろ、ここを訪れたゲンダーヌの姿を思い出していた。
 
「彼は石碑の前で頭を下げ、碑文を読んでいた。戦中も戦後も苦しい目にあった樺太の北方民族は、自らの『戦後』に区切りをつけられないまま大半は死んでしまった」=敬称略=
 
樺太の先住民族 
樺太が帝政ロシアの領土となる前から暮らしていた。樺太庁が作成した1944年(昭和19年)の「樺太土人現住戸口表」によると、南樺太の先住民族はウイルタ、ニブフ、キーリン、サンダー、ヤクーツの5民族計406人。うちウイルタは288人。もともと狩猟・遊牧民だったが、日本の定住化政策で全体の約8割が敷香に集められた。
 樺太で日本兵になった一人のウイルタの数奇な運命を追う。