科学的分析がなかった時代の、ものの見方や概念は、すべて体験的、実証的であったので、たとえそれが科学的説明がつかなくても、真実を語るものが少なくなかったと思います。

そこにある事実を説明できないのは、科学がいまだに説明できる程に、
発展していないという事に他ならないでしょう。

古くから言われている「食は命なり」「医食同源」といった「食」に対する思想や観念が、近代科学で説明できない部分を持ち合わせているのも同じ理由からです。

「身土不二」(しんどふに) とは、その土地の食物によって肉体が作られることをいい、「土産土法」(どさんどほう)とは、その土地の産物を、その土地の料理法で食することの大切さを説いています。
食べ物は、土(その土地)が育てるという意味です。

その考えは、動物性、植物性併せてl年中30品目以上摂らなければならないという近代栄養学の教えには、けっしてそぐわないものです。

エスキモーもアフリカも欧米も日本も、世界中の人間に当てはまります。

人間もまた、地球上の一種の動物にすぎないことを思えば、すべての地球人が、
本来その土地や、季節にない食物を一年中揃えて食べなければならないとする、
近代栄養学は、必要な栄養素を外から補うという観点からすれば、
たしかに合埋的で理屈には合いますが、自然の理屈や法則には合っていないのではないか、という素朴な疑問を持ちます。

また、生きるための食物は、生物の部分や栄養素ではなく、
「命」ある姿そのまま、丸ごと摂ることが大切であるとの考えも、
古くから伝えられる重要な思想です。

それは、例えばそれぞれ栄養素的には違いのない、暖めれば雛になる「有精卵」と腐る「無精卵」や、蒔けば芽を出す「玄米」とけっして芽を出すことはない「白米と糠」が、それぞれ生命に与える力は同じでないという考えにも繋がるのではないでしょうか?

さらに、地域、民族、年齢などを区別しない近代栄養学に対して、陰陽の思想による「食」の教えは、体質、身体状態、年齢など個人に合わせた
食物を摂ることの重要性を説いています。

これらの「食」の思想や観念は、科学的とは言い難いところも見られるかもしれませんが、はたして科学や医療にどれほどの価値があるのでしょうか?

「食」の思想や観念は、事実、実証、体験から生まれたものとして、試してみる価値はあると思います。

古くからの「食の思想」に近い食生活を実践することによって、問題の多い現代の食生活を見直し、健康や治病に効果がでれば、それに越したことはないと考えています。