これは俺が直接体験したことじゃない。
けど、昔つるんでた古い知り合いが、酒の席でポツリと話してくれた話だ。
作り話にしちゃリアルすぎて、いまでも耳に残ってる。
その男は若い頃、いわゆる“向こう側”にいた。
だが、40過ぎで足を洗い、地元を出て、地方で名前を変えて、普通のサラリーマンに収まった。
家庭もできて、近所からは「真面目な父親」なんて評判もあったらしい。
そんなある晩、自宅の電話が鳴ったんだと。
受話器を取ると――沈黙。相手は何も言わない。ただ呼吸なのか雑音なのか、かすかな気配だけが残る。
最初はイタズラだと思った。けどそれは一度きりじゃなく、日を置いて何度も繰り返された。
番号を変えても、しばらくするとまた鳴る。しかも今度は携帯の方まで。
その頃から街を歩いてても、背中に目を感じるようになったらしい。
コンビニに行けば、駐車場に怪しい黒い車。
ある晩には、その車がわざわざ自宅の前をゆっくり通り過ぎていった。
窓は真っ黒で中は見えない。けど、いるんだよ、確実に。
電話は沈黙のまま。要求も脅しもない。ただ「存在を見せつける」だけ。それが逆に怖かったって。
彼はついに、妻子を実家に避難させ、自宅に一人残った。
そしてある夜、また非通知の着信。
受話器を取ると、やっぱり無言……のはずだった。ところが最後に、低い声でこう囁かれたんだと。
――「もう帰ってこい」
その一言で、男はすべてを悟った。
家を飛び出し、それっきり行方不明。勤め先にも戻らず、家財道具もそのまま。
残された家族も、行き先は誰一人知らない。
その後の噂はいろいろだ。
海外に逃げたって話もあれば、古巣に戻ったって声もある。
中には「もう処理された」と囁く奴までいる。
でも確かなのは一つ。沈黙の電話はただの嫌がらせじゃない。
――「お前は逃げ切れない」
それだけを伝えるための、もっとも無慈悲なメッセージだったってことだ。
俺がその話を聞いたとき、笑い話みたいに言ってたけど、声の奥にぞっとする影があった。
沈黙の電話。考えるだけで、今でも背中が冷たくなる。