青い目侍 ジュール・ブリュネ | Kiryu Rotaroと申す

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ジュール・ブリュネはフランス軍人。慶応3年(1867年)1月13日に徳川幕府の要請で、フランス軍事顧問団の副団長として15名来日し、幕府伝習隊の訓練を指導した。ブリュネは絵を描くのが上手くし、温厚らしい。慶応4年(1868年)1月、フランス政府から命令を反して、旧幕府軍と合流して官軍(新政府軍)と戦う決断した。その後、明治元年(1868年)10月に、アンドレ・カズヌーブ、ジャン・マルラン、アルテュール・フォルタン、フランソワ・ブッフィエなどのフランス人下士官と共に旧幕府軍に加わる。旧新選組隊士とともに北海道(函館)へ向かう。
明治2年(1869年)5月2日、総司令官・榎本武揚の助言で、函館湾に停泊していたフランス軍艦で脱出した。横浜、サイゴンからフランスに帰国したブリュネは裁判にかけられるが、普仏戦争が勃発して特赦され、軍務に復帰する。明治44年8月にフランスで没した。ブリュネの子孫がいる。日本で描いた絵は100枚残している。日本短刀は子孫宅にある。
米映画「ラストサムライ」のモデルとされる。

ブリュネは土方歳三と島田魁と大鳥圭介と荒井郁之助と松平太郎と伊庭八郎と中島登と相馬主計と人見勝太郎と中島三郎助と徳川慶喜と勝海舟に会っていた。
明治2年(1869年)5月18日五稜郭は開城され、榎本らは降伏して (→五稜郭の戦い )戊辰戦争は終結した。