南雲麻衣さん 多様な表現と文化が広がる「手話言語」の世界 | Kiryu Rotaroと申す

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多様な表現と文化が広がる「手話言語」の世界:当事者が語る、英語との共通点とは?
GOTCHA!10/24
https://gotcha.alc.co.jp/entry/20191024-sign-language

手話から見えてくる「文化」を、手話使用者であるアーティスト、ダンサーの南雲麻衣さんが紹介します。南雲さんは、3歳半で失聴し、日本語を習得したあとに、第2言語として手話を身に付けました。

手話使用者は、物事をストレートにはっきりと伝えます。日本手話では文法として、最初に言いたいことを言い、あとでその理由を説明していくという形が成り立っているのです。これは日本語よりも英語の構造に近いと思います。
私が日本語を難しいと思ってしまうのは、一番言いたいことを最後に持っていくという構造のためか、答えのようで答えでないような曖昧な表現も含めながら説明していき、迷いながら答えにたどり着くという、「迷える言語」だからではないかと思います。
このような特徴のある日本語を理解し操ることは、おそらく小説でいうと行間を読むような感覚に近いと思います。私には、それが苦痛なときもあったのだと、手話を覚えてから気付きました。
手話は言葉の潜在的なものを見える形で「表す」のを得意としますが、日本語は見えないものを推測して「読み取る」ことに長けていると思います。言語にも性格があり、好みがあると思うので、実は、第1言語がそんなに得意ではないことは、必ずしも珍しくないのかもしれません。
こうしたことは、2つの言語を習得し、2つの文化を手に入れてこそ、気付くことです。
手話は、「言葉」とは異なる表現形態を持つ視覚言語であるゆえに、「言葉」になる以前の、「名前」を付けられていない状態のものも表現できる言語です。
一方で、「言葉」である日本語には、言葉のリズムや言葉が想起させるイメージの広がりによって表現する俳句や詩、また、あえて言葉の使い方や文の構造を崩して、新しかったり独特だったりする表現を生み出せることなど、手話とはまた違った素晴らしさがあると思います。
手話も日本語も、「言葉」という記号に閉じ込められない美しさを秘めていています。
私は、お伝えしたおばあさんとの出会いのように、言葉だけでは捉えきれない本質的なものに、さらに触れていきたいのです。そのために、もっと広く寛容に世界を見ていきたいと思っています。
サイトより引用