だし/たし/荒木だし | Kiryu Rotaroと申す

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だし/荒木だし(永禄元年(1558年)?~天正7年12月16日(1580年1月2日))

戦国時代の女性
石山本願寺に仕えた川那部氏の娘と考えられる。母親は田井源介の娘。荒木村重は当初、摂津池田城主・池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となっていた為、荒木村重の正室は池田長正の娘となるが、荒木だしは天正7年(1579年)の時点で21歳または24歳とされており、年齢的に荒木村重と20歳以上離れており、荒木村重の継室または側室であった可能性が高い。

天正6年(1578年)7月、当時の荒木村重は秀吉の行なっていた三木合戦に従軍していたが、突如戦線を離脱して有岡城へと籠城。つまり、織田信長への謀反を起こした。天正7年(1579年)10月19日、有岡城は村重・村次脱出後に落城した。捕らえられた荒木だしと子供たち、親族、家臣ら総勢600名以上が織田信長の命令され、荒木だしは天正7年(1580年)12月16日、六条河原で処刑された。※
この時、荒木だしはなんと未だ21歳/24歳。処刑時の荒木だしは白い経帷子の上に色鮮やかな小袖を着た姿で、毅然とした態度で最期を迎えたと伝えられている。
かなり美人だと称される。

※天正6年(1578年)10月、突如として織田信長に背き、居城有岡城(現在のJR伊丹駅前西出口すぐ)に立て籠もる。荒木村重は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らによる度重なる説得にも応じず頑強に抵抗するが、織田信長方の軍勢に囲まれて孤立し、翌年9月には僅かな部下と名物茶器を携えて有岡城を脱出する。置き去りにされた妻子ら一族郎党は織田信長の命で皆殺しにされたと言う。荒木村重自身はその後中国地方(毛利氏)に落ち延び、本能寺の変で織田信長が討たれた後、堺(大阪府)に戻り、豊臣秀吉に召し出された。6年後の天正14年(1586年)5月4日に大阪の堺で死去した。

荒木だしが処刑される時に残した数多くの歌の中には、阿弥陀と西方浄土への憧れを詠んだものがある事からキリシタン説には疑問がある。
辞世
きゆる身はおしむべきにも無き物を 母のおもひぞさはりとはなる(「信長公記」)

残しをくそのみどり子の心こそ おもひやられてかなしかりけり(「信長公記」)

のこし置そのみどり子の心こそ すて置し身のさはりともなれ(「左京亮宗継入道隆佐記」)

木末よりあだに散りにし桜花 さかりもなくて嵐こそふけ(「信長公記」)

みがくべき心の月の曇らねば 光とともに西へこそ行(「信長公記」、「左京亮宗継入道隆佐記」)

書置も袖やぬれけんもしほ草 きえはてし身のかたみ共なれ(「左京亮宗継入道隆佐記」)


2018112802130000.jpg荒木だしの姿を伝える文書は残っていない。荒木だし役の桐谷美玲さんはよく演技でした。(2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」より)

女郎塚 上 塚(荒木村重謀反有岡城落城六条河原処刑女性供養墓)は兵庫県伊丹市中央六丁目の墨染寺にあるが、荒木だしを埋葬されるかは分からない。
六条河原の近い京都市東山区の蓮光寺に埋葬されたかどうかだ?