これまでの多くの野球史の資料では1944年9月26日の試合が戦時中の最後の公式な野球大会であり、11月13日に東京會舘で一時休止の声明が出されて日本野球報国会の活動が終了したとされている。
大阪朝日新聞の1944年10月~12月までに掲載された広告記事。
1944年10月1日 甲子園にて阪神・近畿対阪急・朝日 阪急・朝日対阪神・近畿
1944年10月8日 西宮にて阪急・朝日対阪神・近畿 阪神・近畿対阪急・朝日
1944年10月15~17日 西宮にて
1944年11月2日19日23日 甲子園にて阪神・阪急対朝日・近畿
1944年11月5日12日26日 西宮にて朝日・近畿対阪神・阪急
1944年12月3日 西宮にて阪急・阪神対近畿・朝日
1944年12月10日 甲子園にて阪急・阪神対近畿・朝日
残念ながらスコアや結果はまったくわかりませんが、関西4球団は11月13日の声明があったものの、まったく関係なく10月~12月も日本野球の試合を行っている事がわかります。
1945年正月大会
1944年、秋に職業野球は中断となったとされている。
それは職業野球連盟と東京巨人軍の動きが中断されただけであって、我がタイガースは1945年の正月になっても活動していた。
毎年恒例の正月大会を1月1日から5日までの5日間甲子園球場と西宮球場にて開催した。参加は関西地区を中心に阪神・阪急・朝日・産業の4球団の選手達だった。
さすがに徴兵・徴用で選手数は不足していたが、合同チームとすれば何とか2チーム編成できた。
猛虎軍(阪神・産業) 対 隼軍(阪急・朝日)の対戦となった。
1月1日の甲子園球場の観客数はバックネット裏にわずか500人程度だったようだ。歴史の証人はわずかな人数しかいなかった。試合前には少量ながら貴重な酒がふるまわれたという。
登録メンバー
隼軍 猛虎軍
投手 内藤 幸三(朝日) 投手 若林 忠志(阪神)
野口 明(阪急) 呉 昌征(阪神)
小暮 英路(阪急)
捕手 広田 修三(朝日) 捕手 門前真佐人(阪神)
安田 信夫(阪急) 藤野 義登(産業)
内野 菊矢 吉夫(朝日) 内野 松尾 幸造(産業)
上田 藤夫(阪急) 本堂 保次(阪神)
井上 義男(朝日) 藤村富美男(阪神)
酒沢 政夫(朝日) 金山 次郎(産業)
外野 三木 久一(阪急) 外野 中野 道義(阪神)
坪内 道則(朝日) 塚本 博睦(阪神)
畑中 時雄(阪急) 金田 正泰(阪神)
田中 雅治(朝日) 川北 逸三(阪神)
西村 正夫(阪急) 大沢紀三男(産業)
全10試合の試合結果
1月1日 猛虎(若林) 9-3隼(内藤) 猛虎(呉)8-3隼(小暮・野口)
1月2日 猛虎(若林)12-3隼(内藤・安田) 猛虎(呉)6-1隼(小暮)
1月3日 猛虎(藤村)5回中止 隼(酒沢)
1月4日 猛虎(若林) 2-3隼(酒沢) 猛虎(呉)6-1隼(野口・内藤)
1月5日 猛虎(若林) 6-3隼(内藤) 猛虎(呉)9-2隼(酒沢)
5日間の試合を終えて 「3月に、再び試合をしよう」と誓い合って解散した。
約束どおり3月にも集合がかかったが、丁度その日が大阪大空襲の日だった。その為、結局3月の試合は実現しなかったわけだが、彼らはそんな中でも試合をやるつもりだったのだから、まさに野球好きだ。
その後、甲子園球場も軍に接取された。この地で最も高い建物だった甲子園球場のスタンドには空襲に備えて高射砲が設置された。外野グランドは近畿軍需輸送隊のトラック置き場となり、軍の管理の下で使えなくなったグランドは阪神電鉄農業部に勤務する呉昌征が率いた甲陽中学生達の手によって一面芋畑に変わった。西アルプススタンド下は川西航空機の倉庫となっていた。8月6日、西宮大空襲で甲子園も損害を受けた。