刀ステ 悲伝 考察 | 追憶

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刀ステの悲伝を観ての自分なりの考察です。長い上にごちゃごちゃしていて読みにくいですがお付き合い頂けますと幸いです。


三日月は未来を繋げたい
三日月が本当に知ってるのかただの勘なのかはわからないが、悲伝よりもあと、これから先に三日月の言う大きな試練があるのだと思う。そのために三日月は山姥切をはじめとしたあの本丸を強くしたいと思っていて、それを目的にループしている。
三日月の目的が山姥切が円環の果てで三日月に勝つこと(今までのループで山姥切が勝ったことはなかったとする)なら、三日月はもう山姥切と約束を交わす必要もなく、その本丸を強くするという役目を果たしたことになる。これはすなわち未来を繋げることになるのではないのか。
三日月は円環の中でずっと何のために自分はいるのか、これは徒労なのか、どうすることもできないのか、もう終わりにしたい、でも未来を繋げたいと惑っていた、故に心が絡まってしまったけど、これでその意味を見い出せたのではないかと思う。同時にこれで安心して"この本丸"を山姥切に任せられるという安堵もあったと思う。だから大楽では後の顕現シーン、ED、カテコで笑顔だったのではなかろうか。
約束をしなかった理由としては、次の2つが考えられました。
①もう約束をする必要がなかった(上記の理由)
②「今度はもっと強くなった俺が相手だ」という山姥切との約束は即ちその先の未来の山姥切と果たすということになるので、それを守れる確証はないからそもそも約束をしなかったのではなくできなかった。今までの「次は俺が勝つ」というのは三日月が次のループでの山姥切と果たそうとする約束になってて、実際これまでどの山姥切ともそれが果たせなかった。三日月が新たに顕現したのは次のループの山姥切をもっと強くして相手になるためだったのかもしれないけど。でも"それを言った山姥切"と相手になるわけではないのが本当にしんどい。

新たに顕現した三日月について
→大楽以外の結末だと、新たに顕現した三日月は表情などから察するに再び同じ時を繰り返すために絶望したまま円環の初めに戻ってきた三日月だと思う。
大楽の結末だと、その後に顕現した三日月について2つ考えられました。
①以前の記憶をもつ三日月。山姥切が勝ったことを一筋の希望として、先述のようにより強くなった"あの山姥切"と手合わせをしたい、そして自分が見ることができなかったあの本丸のその先を見たい、だからその時まで楽しみに待っていようと新たなループを始めた。円環の中に囚われてもやっぱりあの本丸に戻りたかったって気持ちもあったのだと思う。
②以前の記憶をもたない三日月。円環が絶たれ、あの三日月は円環から解放された。明治座公演で初見だったのですが、EDの勝ち鬨の歌の曲の感じが初演寄りに感じたこと、初演の内容(蘭丸のセリフなど)が再演よりも明るめだったりということから初演に繋がるのかとなんとなく思ったんです。でも大楽まで見た時に、そうじゃなくてこのエンドの後に初演に繋がるのかなって気がしました。ただ、あくまで"あの三日月"が円環から解放されただけなので、ここに新たに顕現した三日月も同じように円環の中に閉じ込められた三日月だと思う。円環から抜けられた三日月も存在するけど、過去にも未来にも円環の中を巡り続ける三日月は数多存在するはず。"あの三日月"にとっては、義伝での「過去ではなく未来、故にその時が来るまで見守り続けよう」というのも達成はされてるしハッピーエンドだけど、本当はステ本丸の三日月自体は無限に円環の中に囚われている。本当は怖いトゥルーエンドみたいな感じですね。こういうの大好きなんですごめんなさい。でも②のほうについては、リリイベで拡樹くんが「三日月はこれまでの全てのこと(公演)を覚えている」と言っていたことから違うかなとも思います。

時鳥
時鳥の中には三日月がいたということから、破壊のときの「帰りたい...帰りたくない...」は三日月の気持ちでもあると感じた。帰りたいはあの本丸に、そして円環の先を見てみたいがために。帰りたくないは円環の初めに、そして一人孤独な円環の中に。外伝で生きるとは惑うことと敵が言いますが、三日月は円環の中で生きていると考えるとその中でそうやって惑っていたんでしょう。探し続けるしかない、惑い続けるしかない、三日月は繰り返す円環の中で自分とは何か、刀とは何か、自分の物語とは何かを未だ探し続けてるのかもしれない。そしてどんどん心が絡み合ってしまった。だから鵺と呼ばれるに対して、お前はいくつもの心が絡み合っているのかと声をかけ、自分と同じような彼に希望を託してみたのかもしれない。また、ある意味で、自分とは?と思う三日月は自分を写なんかと気にする山姥切と近いものがあると思う。だから山姥切ならわかってくれるかもしれないと思ったのかもしれない。ミュのほうで三日月の見えない部分には何があるのか。ただの闇か月なのか。と髭切が言うのですが、ステにおいてもそうなのかなと。三日月の葛藤や苦しみ、誰にも言わず一人背負うもの、何を考えているのかわからない部分、そこが三日月の見えないところ。でも山姥切ならわかってくれるかもしれない、照らしてくれるかもしれない、と希望を託した。同時に足利のふた振りなどには足利の刀だったからこそわかってくれる理解してくれると思って見せていた弱い一面もあったが、最後山姥切に三日月の弱さとも強さとも言える部分を見せたのはきっと山姥切が月を照らす太陽だから。小烏丸は刀剣の父だから、三日月は安心して見守ってもらい頼ったのかなとも思う。

鵺と呼ばれる
鵺と呼ばれるは、自分の正しいと思うもの、守りたいと思ったものを守ろうとした。中に三日月がいたと書きましたが、鵺と呼ばれるの中で、義輝の刀だった頃の三日月が義輝を守りたかったという気持ちがあって守ろうとしていた、その他の刀達も同じ気持ちを持っていて、時鳥と名を貰い、時鳥という刀になってもその気持ちが強く反映されたんだと思う。不動が昔の俺だって言ってたのも、虚伝のときの不動はそんな鵺と呼ばれると同じように、自分を愛してくれた、そして自分が愛してた元主をただ死なせたくなかった守りたかったと思っていたから。鵺と呼ばれるが過去とは過ぎ去りしもので、そんな過去が今目の前にあるから義輝を救いたいと言っていて、虚伝のとき不動もそう思っていたのだと思う。虚伝を見返したら蘭丸も同じようなことを死に際に言ってました。蘭丸もおそらく自覚はしていないものの少なからず過去のループで信長を守れなかったという記憶を残しているため、「今度こそ上様をお守りするんだ」と言っていた。蘭丸の大好きな上様をお守りしたいんだという心を不動も強く受けたのではないだろうか。

なぜ歴史を守るのか
何故三日月はあの時のことを悔やみながらも歴史を守ろうとするのか。それは虚伝で、本能寺で光秀に討たれ果ててこそ信長の歴史だと言っていたこと、また映画でもグラブルでも歴史とは人だと言っていたことから、歴史を守ることでその人の物語を守ろうとしてるのではと思った。美しいが故に使われることはなく、守ることができなかった。でも歴史とは人の生き様も死に様も含めて歴史であり、その人だけの物語であるから、永禄の変で果てるのが義輝の物語。この考え方本当に神様だなと思う。自分が義輝の刀だったあの時は義輝を守れなかったけど、今度はその永禄の変で義輝は果てるという"歴史"を守ることで義輝自身の物語を守りたかったのだと思う。義輝にとっては残酷かもしれないけれど。そして三日月は義輝には思うがままにしろと言うけど、思うがままに生きた結果があの結末で、きっとその結末を変えられないのはわかっていた。だからそれが変わってしまうものなら自分がお前達と戦い義輝の物語を守ってやると三日月は考えていたのだと思う。時鳥が折れる時もここで果てるまでが自分の物語だと言っていた。三日月は円環の果てで消えゆくのが自分の物語だと考えていて、故に他の刀剣男士たちには背負わせることができないと言ったのだと思う。光忠に折られるわけにはいかなかったというのは、もちろん山姥切との約束もあるけど、そこで果てるまでが"あの三日月宗近の物語"であるからなんだと思う。

三日月は何を守ろうとしているのか
歴史を守ることで人間や刀剣たちのもつそれぞれの物語、あの本丸のものたちの本丸での物語、あの本丸、そして何より自分自身のあの本丸での物語を守ろうとしてるんだと思う。三日月はただ美しいということだけが主な物語で、それ故に守れなかったものもある。でも人々の美しいと思う気持ちや長い間多くの人によって大切に大切にされてきた優しい気持ちが反映されたとても美しくて優しい刀。そんな三日月にとって、あの本丸で過ごした日々は"あの三日月"にとっての物語で、あの本丸と仲間たちはそんな三日月が守りたいもの、大切なもの、愛したもの。故にあの本丸の未来を守ることで三日月の物語も繋がっていき、守られるのではないだろうか。

何と戦っているのか
まず歴史修正主義者って図録にもあるんですけど歴史を正しく修正しようとしてるんです。だから今回の悲伝を観てて思ったのは、歴史修正主義者は自分の正しいと信じるもの、守りたいものを守ろうと望まざる歴史を"修正"しているだけ。三日月だけはそれに気づいてるのかなと。他の刀剣たちは過去を改変をしようとしている敵を倒すことで歴史を守っていると思っているけど、三日月だけは、敵がただ元の主を守ろうとしていたり元の主の望みを叶えてあげようとしているだけで、でもそれをしたらその主や刀剣自身の物語は彼らの物語ではなくなってしまうと考え、歴史を守ろうとしているのだと思う。でもこれは歴史修正主義者側からすれば邪魔をされるわけなので、三日月と敵側は相容れない。
そして三日月は自分が望まざる未来を変えようとしている。しかし、歴史修正主義者が自分たちが正しいと思う(望む)歴史を変えようとするものと戦い歴史を修正していると考えれば、やはりこの考えは長谷部が言うように刀剣男士たちからすれば歴史修正主義者と同じ考えであると捉えることができる上、三日月からすれば仲間たちに背負わせることはできないため、刀剣男士たちとも相容れない。だから彼らとも戦うことになってしまう。三日月がどちらとも異なる思考を持っていることから、三日月の言う歴史を変えようとするものとは、先述したような人や刀剣のもつ物語を変えてしまうものたちであり、自分自身のことでもあるのではと思った。山姥切が俺たちは何と戦っているのかと聞いた時に、時間遡行軍とも歴史修正主義者とも答えず、否、答えることができず、歴史を変えようとするものと言った。
歴史を変えようとしているとはどういうことかというと、三日月はこの本丸をやり直すことによって本丸の未来を変えようとしてる。過去を変えても未来は変わらないけど、歴史が結果論なら未来を変えればいい話。これまたミュで、歴史とは川の流れのようなもので、少しの変化じゃ水の流れは変わらないたどり着くところは海であり同じみたいな歴史とはどういうものかみたいな描写があって、それと同じなのかなと。だから山姥切の流れ着いた円環の果ては歴史という川の流れの果ての海辺であり、波の音が聞こえていたのではないかと思う。その円環の果てが変われば過去も未来も変わる。三日月は少しずつ少しずつ同じ歴史の中で試行錯誤して、本丸の未来(三日月にとっては過去にあたる)を変えることであの本丸の歴史を変えようとしているのだと思う。三日月が未来を繋げることにこだわるのもそのせいなのでは。未来が繋がれば変わるものもある。最初に記したように、何かまだ見ぬ本丸の未来に大きな試練があるのなら、それを超える未来を作ることができるかもしれない。これまで救えなかった刀がいたとしたら、その未来を繋げていく過程で救うことができるかもしれない。しかし、彼の歴史とは何かという考え対して矛盾しているようにも思えるので、三日月自身、そんな矛盾にも苦しんでいたのではないだろうか。そんな葛藤に苦しみながらも、三日月はあの本丸のために自分が正しいと思うことをしてきた。そして希望を託した月を照らす太陽である山姥切に、自分を見送る不如帰としてあの本丸に俺の思いや物語をつれていってくれ、本丸の歴史を未来へ繋いでくれ、刀剣に込められし物語を超えてまだ見ぬ本丸の未来へ、円環のその先へ連れて行ってくれと思っていたのではないだろうか。

黒甲冑についての考察
関ヶ原で倒されたが狂った時間軸のせいで永禄に呼ばれたと言っていた。黒甲冑も関ヶ原で政宗を殺さないためにループし、試行錯誤していた。円環の中にいる三日月だからそれに気づいたのだと思うけど、黒甲冑も実はずっとループしているのでは。歴史の流れ的には永禄の変が関ヶ原よりも先なので、ここに呼ばれたのは関ヶ原の記憶をもつ黒甲冑。この本丸の管轄する時間軸がそもそも狂っているから、あるはずのないものがあり、起こるはずのないことが起こる。この黒甲冑は永禄で倒されたあとに三日月の結の目による何らかの力で、この本丸の次のループで前のループの記憶を持たずして関ヶ原にまた戻ってくるのかなと思った。
鵺と呼ばれるは初めはいなかったが、とあるループ(おそらく明治座の最初の公演)で初めて現れ、それから現れるようになった。黒甲冑もおそらく初めはいなくて、ある時から現れるようになったのかもしれない。義伝で三日月が鶴丸を気にかけていたのは、過去のループで鶴丸が折れた、または黒甲冑が初めて現れたループなどで、鶴丸が取り込まれた際に鶴丸ごと一緒に破壊した可能性が考えられました。義伝で黒甲冑との戦いに苦戦し、鶴丸ごと切るのかと貞ちゃんが言った時にどうしたら良いかを助言したのは三日月でしたし。黒甲冑が政宗を天下人にしたかった気持ちで現れたように、鵺と呼ばれるも三日月の義輝を守りたかった気持ちや他の義輝の刀剣たちの気持ち、義輝が死にたくないと生に縋る気持ちから狂った時間軸の何らかの力も加わって生まれたのだと思う。結の目の中で山姥切が「本来俺はここにいるはずがないんだ」と言ってたけど、黒甲冑とか鵺と呼ばれるもそんな感じで結の目によって現れたとか。

鵺と呼ばれる
最初は、悲伝はあるループの話をやってて毎公演同じことをやるのとループしてるのを上手くかけてて一つ一つが違うループとも捉えられるよって感じだと思ってたけど、三日月(拡樹くん)は毎公演覚えていると言っていたという話を聞いて、ある一つのループの話ではなくて毎公演が各ループなんだなとなりました。上記でも書いたのですが、鵺と呼ばれるは最初はいなくて、だから明治座の公演あたりでは本当に三日月もなんだこいつはってなってたし、そんな突如現れたイレギュラーな鵺にも希望を託してた。でも最後の頃(おそらく日本青年館での公演あたり)になるにつれて鵺たちと三日月の関係が変化していった。それはあるループ(一公演目)から現れるようになった鵺が永禄の歴史を変えることはできなかったけど、彼が現れたことで明らかに今までとは流れが変わってきてることに気づいてそこにやはり希望は見出さずにはいられなかったのかなと。そして関係性の変化については、自分と同じように心が絡み合ってしまっている彼に何か感情が生まれたのかもしれない。

結の目の中で
戦争のところ、ああ、刀ではなく銃を使う時代も見てきたのかって結構辛くなってました。大楽でそこだけなくなったの、ツイートでお見かけしたのですが、結の目が一つ解けたという解釈があってすごくいいなと。ただ、原作では戦争の時代はもちろんなく、刀の時代の終わりである函館戦争からです。もし結の目が山姥切にその刀の時代の先を見せたなら、未来を繋げ、新たな時代で刀は有り様を変え、存在していくことを見えていたのかもしれない。また未来が繋がることで結の目が解けていくのなら、黒甲冑や鵺と呼ばれるなどが生まれることはなく、季節がおかしくなることもなくなり、あの本丸は狂ってしまった時間軸から通常の時間軸に戻ることができるのでは。そうすれば全てが解けた先でもうループすることはなく本丸襲撃がない未来へと繋がるのかもしれないし、強くなった本丸を叶うのなら見届けたいと願う三日月の願いも叶うし、これまでの苦しみが無駄ではなかったとなれるので、円環の中で絡んだしまった彼の心もまた解けていくのではないだろうか。これなら誰にとってもハッピーエンドでいいのだけど、先述のようにそれもまた円環の中に囚われていた"とある三日月"と"とあるループにおけるあの本丸"なのかもしれない。

円環の果て
明治座、青年館、大楽を観ての違いがあったので。
明治座では、ふらふらして辛そうではあったけど、そこまで三日月衰弱もしてなくて山姥切は手も足も出ない感じで最後負けた時も刀を落として崩れ落ちたところ勝負あり。ほんとにぼろ負けだった。
その前の会話のところ、優しく語りかける感じで、山姥切がどうすることもできなかったのかって聞いた時も困ったように笑って首を振りながら皆背負わせるわけにはいかなかったと言っていたような。約束だのときの悲しそうな笑顔と震える手が本当に辛かった。
日本青年館では、明治座のときよりもかなりふらふらしてて衰弱してた。山姥切ともいい勝負してたし三日月の雄叫びと言えばいいのでしょうか?も沢山あって臨場感が増してた。最後は山姥切が刀を弾かれて拾おうとしたところで勝負あり。三日月が山姥切と話す時に消え入りそうな声で何度も話していた。あと煤けた太陽よ...ってセリフも恐らく青年館から。お前達に背負わせるわけにはいかないなどのセリフが強めで、明治座のときとは明らかに違った。
大楽では、三日月もう人の身を保つだけで精一杯なのではと思うくらい衰弱してて、拡樹くんだからこそのあの演技かなって一周まわって関心してました。青年館のときのような話す時の消え入りそうな声などの印象はなかったけど、本当にもう最期が近くて話すのさえ辛いといった感じがした。山姥切とは接戦で、切って切られて。二振りとも本気のぶつかり合いがすごかった。最後は三日月が刀を飛ばされ勝負あり。山姥切が勝って、そんな山姥切に強くなったなと声をかけていた。そして最後楽しみにしてるって言った時本当に穏やかな嬉しそうな笑顔だった。
白三日月の拡樹くんは日に日に幻の城の宇喜多の狂ってる時の感じに近づいていったなという印象を受けた。まさに狂気、そして幽玄。好きです。リリイベにて、刀解の儀でどんどん劣化して消えゆく意識の中山姥切との約束だけをよすがとして意識を保って戦って、最後に本当の意味で笑えるのかなと思っていたと言っていたのですが、円環を巡るにつれて山姥切は強くなり三日月は弱っている。だから各ループでの刀解の度にどんどんぼろぼろになっていく。大楽のあのときが、気が遠くなる程の長い間、少しの変化に希望を託して円環を巡り続けて、ようやく大きな可能性がみえ、同時に山姥切との約束を果たすことができた、初めて三日月が心の底から笑えた瞬間だったのですよ。しんどい。

三日月宗近について
三日月って今まで神様であり妖である感じを一番強く感じてたんだけど、刀ステを観てて、三日月はある意味一番人間の傍にあった時間も長い分、一番人間味があるのかなと。そして人も仲間も愛してるそんな優しい刀なんだなと。そんな気がした。とうらぶでレベルが99までなのはどんどん人に近づくけど人にはなれないという話があるけど、ステや映画の三日月を観てそれを強く感じた。明治座で三日月のみがスッポンから出たのは三日月だけが刀剣男士を超え(小烏丸の発言では強さについてだった)、刀剣男士でも人でもない存在となったから。黒甲冑のように執念により円環しているなら、その自身のあの本丸の未来を繋ぎたいという執念により三日月は円環し、モノノケのようなものにでもなってしまったのかもそれない。でも三日月もみんなと同じように心あるが故の矛盾などに葛藤して悩んで懸命に生きてるから、ちゃんと刀剣男士だったと思う。映画と比べるとステの三日月はまだ神様寄りな感じがするけど、三日月宗近自体が昔から人に大切に大切にされてきたからこそ、その想いを受けて人や仲間を愛し大切にする刀なんだなと思いました。

三日月はその心でどんな世界を見ているのか。
優しい刀だから、優しい心で悲しい愛しいこの世界を、そんな世界で懸命に生きるものたちを見ているのではないか。長くこの世にあるからこそ、短い時を生きるとても儚い生き物である人間達を、長い円環の中にいるからこそ本丸で懸命に生きるものたちを見守り続けてる気がする。
義伝で鶴丸が三日月を驚かせたいと言っていたのは、三日月の異変に気づいた鶴丸はその心が死んでいる、または壊れかけていると思ったんだと思う。だから救いたかった。自分を驚かせるのは骨が折れるぞと言ったのも三日月は自分でもそう気づいていたから。実際円環のあとの表情とかを見ると心が壊れかけている、死にかけていると感じた。でも千秋楽のあとのあの笑顔や心があることで悩んでいたことを考えると死んではなかったんだと思う。

虚伝での宗三の本能寺の変の夢、ジョ伝での骨喰の三日月が顕現する前に見た三日月の夢はどちらも過去のループの記憶だと思う。光忠のぽっかりと抜けてしまった記憶そして思い出せない大切な何かというのも、過去のループの記憶と三日月が何かを守ろうとしていたという記憶。関ヶ原でループ後に光忠は頭がぼーっとすると言って前のループのことをはっきりとは思い出せなかったが、過去のループでの出来事を思い出せないのは恐らくそれと同じ。
時間遡行って同じ時に何度も遡行してるのはループと近いと思うので、実は鵺と呼ばれるは生まれてから何度も永禄を繰り返していて、その度に義輝を守れなかったその夢を見ていた。もしかしたら他のループの永禄の変の夢を見ていたとも考えられる。
義輝の中に何度も自分が死ぬ記憶が流れてくるのは、三日月や鵺と呼ばれるがこれまでループの中で見てきた記憶が刀を交えたことで共鳴し、流れ込んだのかもしれない。大楽のあれが三日月の夢オチだったとかも考えたけど怖いからそうでない希望を抱いておく。

バッドエンドにもっていきがちなので、もし三日月が円環から救われたとして、そうなると円環する三日月はいなくなるからそもそもあの本丸に三日月が存在するという事実自体なくなってしまうのではないか、そしたら本丸の皆からもその記憶が消えてしまうのではないか、新たに顕現した三日月もその記憶は持たず、覚えているのは山姥切のみのような結末になったらどうしようと思ってしまうところです。刀ステは大団円と言っているのでこんな酷なエンドはないと信じたいですけどね。

最後に、あの本丸みんなが幸せになれることを願ってます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。