水に墜ちた犬は打て――
ライバルは二度と這い上がれないように打ち殺すのが、人の世の常
「助ける」など幻想 利用すべき甘さ
凡庸な悪には 正義の味方も太刀打ちできない
月村了衛さんの 【非弁護人】
単なる懲戒ではなく、なぜ自分がここまで陥れられなければならなかったのか。
狭い独房の中で考え続けた。そしてようやく悟った。
真に腐敗していたいのは加茂原ではなかった。そのさらに上が、どうしようも無く腐っていたのだ。
佐倉を逮捕した時、彼の目には明らかな余裕があった。
こういうことだったのか――
雲の上は天上にあらず、汚泥にまみれた畜生界だ。そしてソレを守った検察も、全て幻想でしかなかった。
秋霜烈日が聞いてあきれる。これまで自分が信じていた検察の理想も使命も、すべて幻想でしかなかった。
今、眼前の老婆が語ったアン一家の例がまさにそれである。ヤクザは銀行に口座を作れない。従って学校給食の口座引き落としができない。現金で学校に支払いを行くとその行動でヤクザとバレる。ヤクザであることを隠して口座を作ると、詐欺罪で訴えられる。例えヤクザを止めたとしても、そのあと五年間は反射と見なされる通称「五年ルール」も存在する。事実上、末端のヤクザとその家族が現代社会で生活することは極めて困難だ。
告解には憲法について詳しい野党議員がいる。そのため元警察官僚からなる政治勢力は法律ではなく、条令となるように事を運んだ。地方自治体の知的レベルを舐めているのだ。
そして実際にその通りだった。暴力団排除の大義名分だけに目を奪われ、各自治体は人権問題など考えもせず次々に暴排除例を可決した。
「お前にも分かっているはずだ。コレが世の中ってやつなんだよ。どこまでいっても公平なんてできてやしない。不正と不公平がのさばってる。その中で、俺たちは喘ぎながら生きていかなきゃならないんだ」
マリクに言い聞かせているつもりが、途中から己自信の呪詛となってしまった。
「大丈夫ですよ。皆さんの温かい人間性は私が保証します」
「怖いんです、私。今まで他人に裏切られてばっかりで……」
すると楊は大きく頷いた。
「わかります」
「親しい人を信じたばっかりに、私は全てを失いました。ですから、人を信用するのが怖いんです」
検事時代のこと。そして篠田のこと。それらを思い浮かべると、自分でも驚くくらいリアルな演技ができた。いや、演技では無かったろう。胸の中に、当時に苦しみが黒く染み出てくるのを感じていた。
自分はあの頃のことをここまで引きずっていたのか……
思わぬ形で、宗光を己の内面を否応なく直視させられた気分であった。
互いの距離が縮まるにつれ、宗光は加速度的に確信を深めていった。
肌がざわめくような悪寒。魂を腐らせるようなにおい亡き腐臭。そして――恐怖だ。
理屈ではない。本能と直感とが告げている。
この男が『鈴木』だ。
二メートル、一メートル。距離が次第に縮まっていく。破裂しそうな心臓の鼓動が、相手に聞こえないか心配になる。
30センチ。かつてあったことのあるどんな人物、犯罪者とも異なる感触、そして空気感。精神が断線するかと思われるほどの緊張が頂点に達する。
何事もない、自然な様子ですれ違う。
そのまま5,6歩進んでから、宗光は振り返った。
コンクリートに包まれた死体は、混ざり合ったり密着したりすることはないので、腐敗しつつも元の形で保存される。永久肢体の一種『死蝋』である。
全ての油圧ブレーカーが停止した静寂の中、裂け目からあふれ出た茶色の液体が周囲に広がっていく、遺体の腐敗臭であった。
凄まじい悪臭に、作業員たちが一様に飛び離れる。中には堪えきれず臭うとしている者も少なくない。
捨身の中で、男はうっすらと笑っていた。何を考えているのか分からない。不可解な笑み。じっと見つめているだけで嫌な気分になってくる。どこからか荒涼とした影が吹いてくるような、今いる場所がいつの間にか現世ではなくなってしまったような、そんなここち悪さを覚えずにはいられない。
――俺の年齢を当ててみな。
そう挑発されているようにも思えてくる。
「潰すとか潰されないと、私はいずれの組織のトップでも構成員でもありません。要するに、社会全体を敵に回すようなロマンティストではないということです。あなたはニーズとおっしゃいましたが、その通りです。武器で荒れ人間であれ、世界にはニーズが溢れている。ソレが現実です。私はそんな現実の中であくせく生きている一人でしかない。しかしヨ―さん」
「なんでよう」
「機会とか運命とか、まるで信じてはいませんが、そうおもっていると意外とやってくるモノじゃないですかね。あなたにも、私にも」
ヨーは初めて心から楽しそうに声を出して笑った。
無関心という邪悪、偏見という腐敗、不寛容という毒心。
悪の根付く沃野がここにも広がっている。どこまでも果てしなく、尽きることなく。『蝦川』は決して滅びない――
言い知れぬ疲労感を抱き、宗光は再び仮初のまばゆい光の中を歩きだした。
――◆――◆――◆――
見て見ぬふり・無関心こそ最大の悪――
今の世の中、そんな非難や煽りがたびたび叩きつけてくるけど、
ソレて本当なの?
だってどうしようもないじゃん? 自分の責任じゃないじゃん?
プロフェッショナルが駆けつけてくれるはずじゃん?
それが現代社会の享受すべき利点にして、守るべき鉄則。
下手に素人が手出ししたら、被害が複雑・拡大してしまう恐れもある。
勇気がなかったり、面倒ごとを避けたい怠けは確かにある。
でもソレを、悪の温床だと非難されるおぼえは無い。
守れると約束したのに、守らないのが悪い。
手が足りな過ぎるのは知っている、目が行き届かないのも分っている、そもそもが努力目標だったとも。
行き過ぎた多様性は害悪でしかない、のと同じように、
実現可能なレベルまで、人間の手が届く範囲まで目標を下げる必要があった。
「復讐するは我にあり」と約束してくれた神様はいるけど、すぐに・納得できる形では復讐してくれないのは知っての通り。
できもしない理想を押し付けて、差別意識で塗りつぶしてきて、我を通そうとする。
ソレこそが、本当の悪の温床だと思う。
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