本日の御書です。

「二千二百余年が間、教主釈尊の絵像・木像を賢王・聖主は本尊とす、然れども但小乗・大乗・華厳・涅槃・観経・法華経の迹門・普賢経等の仏・真言・大日経等の仏・宝塔品の釈迦・多宝等をば書けどもいまだ寿量品の釈尊は山寺精舎にましまさず何なる事とも量りがたし」

(P1128呵責謗法滅罪抄)


大聖人が南無妙法蓮華経の御本尊を顕わされるまでは、釈尊の絵像・木像などが本尊とされてきました。御書を読むと、門下が釈尊の仏像を造立したことを褒め称えたり、その仏像をしっかり開眼供養しなさいとご指示されたりしているものが見受けられます。これらの御書を依文として仏像を建立してしまっては、本尊に迷う姿と言えるでしょう。
日興上人は、「聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(P1606富士一跡門徒存知の事)と仰せです。御書全体を通して、大聖人の正意がどこにあるのかを読み解くことも大事だと思います。